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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第十一章 慧能」(p221〜250)を読みました。

《以下引用(p245)》
覚者と呼ばれた人達が辿った道は文字通り孤独な道なき道であった。彼らは自らの終焉と永訣を受け入れ、ひとり太古の海に消えたのだ。衆多の生を経験する中で積み重ねてきた自分の消息すべてをその中に葬り、たとえ後人が彼らの足跡を訪ねようにも見あたらない。

私たちは愛するものの死に幾度か悲しみの涙を流したことだろう。しかし、自分自身(仮我)の永訣(死)と独り対峙して、たじろぐことなく無の中に消えていった高貴な人が果たして現代にどれだけいるだろう。私たちは見当違いのところで喜び、見当違いのところで涙する。
《引用終わり》

前出の『入鄽垂手』と併せ読むといいかもしれません。

《以下引用(p246)》
真の宗教者は、世界が幻影(夢)だと言われてきたという理由から、世界を放棄し、世捨て人になったりはしない。また一般にそう思われがちだが全くの誤解である。自らの本源に帰入すると、世界も同様に海中の漚(あわ)のごとく本源に消えるさまを見て、「この世は夢の如し」と言ったのだ。「菩提を得る者は、寤(さ)めたる時の人の、夢中の事を話すが如し」(『首楞厳経』)。否、それだけではない。今や自らの本源(自性)の中に全世界は玲瓏たる真実(タタター)を現したのだ。それでも彼らが少しばかり世捨て人のように見えるとしたら、それは私たちが見ているような二元論的な世界が自然に消えたのであって、この世界に背いてどこか外に真理を求めたわけではない。真理は求めずとも、今、ここにあると知ったのだ。
《引用終わり》

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