「The Whole Truth」を見ています。docomoのdビデオでは4月14日までの配信なので、少々急いで。

法廷もので、一話完結。事件が発生して、いつもの検事と弁護人がそれぞれ担当となって、それぞれの立場から捜査を進めます。被告人や周囲の人たちが、検事側の捜査と弁護側の捜査とで、全く違う人間として描かれていたりして、そこは面白いと思います。陪審員の前で、それぞれ弁論を行い、判決が出て、二人の間で一応の勝負はつきます。しかし必ず毎回、どんでん返しのような結末が準備されている…というようなパターンです。

whole truth というタイトルの意味・ニュアンスがどんなものなのか、英語が得意ではないのでよくわからないのですが、「真実はたくさんあるので、その全部を描くことを目指してます」という意味なのかな…と勝手に思いました。というのは、検事にも弁護人にも、たった一つの真実(事実)を見つけ出すという雰囲気が感じられないからです。

そもそも、検事と弁護人がディベートを行い、陪審員が判定を下すという裁判の形式自体、神ならぬ身の人間が真実を見つけることなどできるはずがないという諦めを前提としているのかもしれません。

検事側と弁護側との間に様々な真実があり、判決はその中の一つを選び出すこと。真実とは二人の綱引きの最終的な落ち着き所。司法取引とか、刑が軽くなるなら無実の罪も認めるとか、それぞれの結果的な利益が大事で、真相究明は二の次のような雰囲気です。要するにアングロサクソンだということなのか…

それがアメリカの法廷の現実なのかもしれない…日本もいずれそうなるのかもしれない、いや、既にそうなのかもしれない…と思うと、どこか釈然としない不快感が残ります。

検索してみたら、ブログで批評をされている方がいました。こちらを読んでいただくと一層よくわかっていただけると思います。配信の期日が決まっていたのでアメリカでは人気番組だったのかと思ったのですが、そうではないようです。