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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」を読んでおります。その著者村田氏に、昨年同様に今年もお会いすることができました。

やはり、教室の指導に関することを微細に議論したい先生方に交じって、直接には指導にタッチしていない私が口をはさむことはなるべく慎まなければならないと思っておりましたし、その場に身をおいて尚のこと、その雰囲気を壊してはいけないと感じました。

それは、その雰囲気が抗しがたいほどに重苦しいからでは決してなく、むしろ自分にとって心地よいからでした。「自学自習を実現させる教室」を目指しての言葉のやり取りは、ハイレベルのスポーツの試合にも似ていて、私にとってエキサイティングなものでした。

何十年という実績をお持ちの先生方(指導者)が集まる中、公氏の話題になった時に、これならば大丈夫だろうと思い、昨年村田氏がおっしゃった「公文公は私の師匠ですから…」という言葉について尋ねてみました。

「師」あるいは「師匠」とは、その人ひとりでは成立しない。必ず、弟子がいなければならない。「師匠」を創るのは弟子なのだ。弟子がその人を評価することによって「師匠」が成立する。

そして、「師匠」がどんなに変に聞こえることを言ったとしても、その裏には何か自分が知り得ない深い意味があるはずだと、答えが見つかるまでひたすら考えるのが「弟子」である。

そんな定義をして下さいました。考えてみれば、「ソフィスト伝」は、そういう弟子の務めの集大成のようでもあります。「公はこんなことを言ったのである。血迷ってしまったのだろうか?しかし、これについてはこういう解釈が可能である…」的な話はいくつも紹介されていました。それが、謎解きのような面白さを感じさせてくれました。

「公さんが師匠になった瞬間、あるいはそのきっかけは何でしたか?」と私は聞いてみました。何か、キラキラした劇的なエピソードを期待しながら…。

「(公氏の)異能でしょうかね…」と氏は答えてくださいました。数学者でありながら国語に関する造詣も深く、自分が答えを知っていながらも国語の質問を村田氏に投げかけることがよくあったそうです。つまり、カマをかけることがよくあったとのこと。

意地悪というか、人間臭いというか、全くキラキラしていない答えに、むしろ納得し、彼らの師弟関係を一層羨ましく思いました。

(2012.10.21記)

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