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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「幼児教育は幼児期だけのものか」(p145〜154)を読みました。(小林教室収蔵

前回紹介した斉田先生の幼児教室ですが、幼児だからといって特別扱いをしているところがないようです。

《以下引用(p146)》
相手は幼児である。必要なだけ準備がないならば、教材の学習をすることはできない。ふつうの生徒と事情は変わらない。こうした学びの場の掟を教えてでもいるのであろうか。幼児だからといって、これに合わせた幼児教育はしない。学ぶ場への狭き門をくぐろうとするものは、それなりの準備をととのえなければならないのだ。楽しみながら学ぶとか、幼児には幼児らしい行儀作法などをしつけるといった雰囲気はまったくないのだ。ここの幼児教室は子どもをあやす場所ではない。生活に合わせるのではなく、幼児指導から逆に幼児の生活を築きあげようとしている。

こう書くと、なんと殺風景な、と思う方がいるかもしれない。しかし、じっさいは、熱気いっぱいの、じつに活気のある、たのしい教室である。泣く子はいないし、そんな暇などない。年長の子が全体をリードしていく。もし子どもたちだけで遊ぶようにさせたら、こうなるのではないかとも思うような場の雰囲気なのだ。
《引用終り》

幼児教育は、幼稚なレベルに合わせた教育でなければならないのでしょうか?

《以下引用(p148)》
幼児には幼児にふさわしい教育をとなれば、幼児の可能性は閉じられてしまうのではないか。どこまで導こうといった意志が指導する側にないからである。障害児の教育においても事情は同じである。幼児指導や障害児のあつかいを得意とされる人たちほど、失礼ながら、学ぶことより、身辺自立を優先したがるのだ。そのため、その幼児の能力の可能性を見ることなく、幼児に合わせて、教材以外のあれこれを用意したり、教具を作ったりして、シンプルさを失って、複雑な働きかけにおちいる傾向、なきにしもあらず、なのだ。なぜ複雑になるかといえば、大人の考えがそこに入るからである。幼児であれ、ハンディをかかえる子であれ、ひらがなや漢字、足し算引き算の学習の世界への道筋を見出す方向へ指導はさだめるべきなのだ。そうしないため、肝心の学ぶほうはといえば、かえってその発達がそがれる結果になる。甘えるし、すこしの困難にも耐えられない。もちろん、幼児はそのまま学ぶ主体になるものではない。しかし、主体があって場を作るのではなく、場を作りながら主体は発見されていくのである。
《引用終り》

「子どもの主体性を大切にする」という名のもとに、幼児教育に限らず、同じ間違いをしている犯しているような気もします。

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