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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

公文公氏が生前提唱した「特別研究生」は、教室で指導者の指導を受けながら学習し、宿題でもこれを十分に復習した後、家庭学習でいまだ指導すら受けていない未学習分を自分だけの力で学習していくというものでした。

しかし、未学習分を宿題として持たせるのは、指導者にとっても冒険なのです。

《以下引用(p117)》
「こんなむずかしいことをして、どうするの?」、「教室で習ってらっしゃい」、母親のこうした声が聞こえてくる。指導者は当然ながら、できるだけスラスラできる宿題をわたそうとする。子どもができない教材をあえて宿題にして、家庭争議をおこさせる指導者はいない。
《引用終り》

それでも、自学自習とは生徒自身の冒険なわけだから、これを避けて通ることはできない。「特別研究生」とは、指導者もしっかりと生徒に向き合い、母親たちの心配をも乗り越えていこう、という呼びかけでもありました。

ところが、斉田教室では、「特別研究生」とは違った方法で、それ以上の成果が上がっている…。

《以下引用(p118)》
斉田先生の教室では、学習回数は個人別である。一回の生徒もいれば、二回以上の生徒もいる。しかも、教材のセットは、「特別研究生」のように、教室分と宿題分には分けない。教室で学習した続きの教材がそのまま宿題の教材になる。家庭での宿題だからといって、お母さんが困らないように復習教材を宿題にするということはしない。まだ指導を受けたことのない新しい教材を教室と同じように、つづけて宿題でもおこなう。

学習枚数も個人別である。2枚の生徒もいれば、5枚、10枚以上の生徒もいる。したがって、学習の進度もまた、個人別になる。
《引用終り》

「特別研究生」は指導のマニュアル化(定式化・パターン化)のような側面があり、そこは明らかに問題でした。斉田教室では、そういう問題も無いようです。

《以下引用(p119)》
自学自習で学習するとき、まさに「やってみよう、やってみなければ、わからない」という勇猛果敢というか、冒険心に似た学習態度がしぜんと出るものである。こうした学習態度がもっとも顕著に表れる場所は、学年を越えた教材を学習するときであり、しかも、学習者がこれまでとは異なった対応を求められる新しい課題に入ったところの一枚の教材、また、毎日の学習において出会う教材の一枚である。とくにその日の学習の一枚目の教材への取り組みに表れる。前回までできていても、また宿題をやってきても、その日の学習状態が順調かどうかはわからない。生徒も生身の人間である。学習への向かい方がいつも同じというわけではない。多少なりとも変化がある。教室では本日分の学習をするにあたって、その準備ができているかどうか、まずはその一枚目の教材のでき具合を診るルールである。ここで、時間がかかったり、まちがいが多かったりすればもちろん指導が入るが、できるにはできても、新しいものに挑戦するといった果敢さがなかったりした場合は、やはりアシスタントは先生に知らせなければならない。得点や時間といった定量的な判断基準以外、こうした学習態度への注意にも怠りがない。
《引用終り》

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