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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「ちょうどの学習が実現できる場」(p110〜132)を読みました。(小林教室収蔵

標準完成時間は、その生徒が自学自習できているかの判断材料となります。

《以下引用(p114)》
採点者は「指導者の目」である。…標準完成時間のなかで学習が進んでいるかどうか、これをアシスタントは採点という仕事をとおして見なければならないのだ。…

さきの学習を自学自習できるためには、集中力を切らして、時間がのびのびになっていれば要注意の生徒である。これ以上さきの学習を進めるのはむずかしくなる。あわてて急がせるのではない。あたりまえの余裕のあるしぜんな学習はこうなのだ、ということを指導する必要がある。置いてきぼりにならないようにするために、である。だから、先生の目はやさしさを帯びてくる。…

(p115)標準完成時間を超えている、学習がスムーズにすすんでいない兆候かもしれない。しかし、そうでないかもしれない。だから、生徒を呼ぶのである。そして、生徒の学力の実態を見て、その生徒にもっともふさわしい指導をおこなう。このさきの教材が完成時間内でできる状態を確認する。
《引用終り》

採点者は「指導者の目」。だから、斉田先生は、アシスタントにも手厳しいようです。

《以下引用(p114)》
ついつい解答へのヒントを与えたり、すでに帰宅した生徒の宿題の採点に没頭していたり、こうした採点者がいたとすれば、これまた先生の叱責の言葉がその採点者にとぶ。生徒の学習時間内に採点は終わらなければならない。ほかのことをする暇があるなら、採点を急げ、当日分、宿題分、この採点が、きょうの学習を正常にもどすための生徒にとって重要な資料になる。
《引用終り》

指導者の留意点は何か。

《以下引用(p115)》
教材のここに来たらこうしよう、次の例題のところではこれを教えよう、というふうに待ち構える必要はない。斉田先生の指導に、生徒を待ち伏せする指導の箇所はいっさい、ない。導入箇所ではかならず説明や解説をするという同僚の指導者は多いが、生徒の学習になにも支障がないのに、説明する必要はないし、待ち伏せする必要もない。自分にはだれも知らない指導技術やスキルがあると思い上がっている指導者ほど、始末のわるいものはない。生徒の自学自習する気を失わせるだけであることに気づいていない。
《引用終り》

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