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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「特別研究生、その後」(p9〜132)の「公文公氏の方法」(p59〜69)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p60)》
では、公文氏はどんな「方法」をとったのか。かれの流儀はこうだ。まず、あるモデルを設定する。このモデルの実践を指導運動の形にして全体に呼びかける。この呼びかけにのらない人がいても意に介さない。やれる人、関心のある人、「やってみよう、やってみなければ、わからない」と思う人がいればいい。そうでない人にやってもらっても、モデルがそのまま実践されることはまずない。せいぜいモドキが出るのが関の山である。みこしにぶらさがる人はいつもいる。
《引用終り》

謙信とか信長もそういうタイプだったような…。

「特別研究生」もそのような方法で進められました。ただ、「ネオ公文式」と呼ぶなど、今までとは力の入れようが違っていたようです。

特別研究生のグラフを再掲します。
《特別研究生のグラフを拡大する》
特別研究生


特徴は、教室でやるものと宿題としてやるものを分けて、複線で並行していくところかと思います。

横軸目盛の2−3の区間と5−6の区間では、赤い線(宿題)が青い線(教室)よりも進んでいます。つまり、100枚中25枚程度、学習も練習もしてない教材に家庭で挑戦(自習)することになります。

《以下引用(p62)》
公文式の指導者のなかには、公文氏の「特別研究生」を知って、そのとおり実践した人がいた。しかし、この「特別研究生」運動のなかから学び取るのは、子ども自身による自学自習の可能性の実態についてであり、この「特別研究生」が学年を越えてもなお自学自習できるために必要となる指導法についてである。言われたままにそのとおり「特別研究生」を教室に移入するだけですべてがうまくいくと考えたとしたら、かれの真意を誤解する。公文氏はモデルを提示しただけなのだ。このモデルの実践をどうするか、それこそ教室ごとの実情にあわせて指導者が考える仕事である。
《引用終り》

しかしながら、この運動は失敗に終わったようです。その原因は、「指導者本人を信用していないところから生まれた指導法だったから」と村田氏は指摘しています。

《以下引用(p65)》
教室分と家庭での宿題分を分けよう。そして、学習の実態は教室だけでなく、家庭でも見られるようにする。じっさい、教室の指導者が見るだけでなく、家庭の母親も見るようにする。母親が子どもの実力以上の教材進度をのぞんでも、教室での学習が順調でなくなれば、指導者はこれを見のがすはずはない。この反対もある。教室では順調だといわれるが、この家庭での学習ぶりはどうだ。先生はうちの子が自学自習できていないことを知らないのではないか。教室での無理な指導があれば、その状況はそのまま家庭でも知ることができるのである。
《引用終り》

教室分と宿題分を分けるのは指導の選択肢のひとつとして「有り」だと思います。ただ、上記のような危険を孕んでいることを忘れてはいけないでしょう。

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