「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。
《以下引用》
彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。(『トマスの福音書』74)
生の源泉(本源)であるプレーローマの周りで人々は自らの個(自我)を保ちながら、多事に明け暮れ、あれこれと頭を突っ込んでは、しばらくは我を忘れて興じる。しかし、その中には誰もおりません、とイエスは言う。…それはただ単に、生の源泉に帰ろうとする人は多くないというだけではなく、その深遠を覗き込むことは、われわれの死(自我の死)を意味しているから、人は無意識の内にそこに帰ることを避けているというのが一つであり、実際、この始めが終りとなるプレーローマへと死のダイブをし、自己が消え去ることを許す勇気ある人しかそこに辿り着くことはできないから、当然の事ながら、そこには誰もおりませんということになる。
《引用終わり》
悟ろうと思えば、なお悟りは遠ざかる…悟りのパラドクス
成就しないことでその純粋が完結する純愛のジレンマにも似ています。
自己を失うことで実現する無自己実現。
この失うべき自己(仮我)の消失を、禅では「大死」と呼んでいました。
キリスト教でも同様の表現があるということですね。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、いのちを失う者はそれを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(『マタイの福音書』)
「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます…自分の命を愛するものはそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。(『ヨハネの福音書』)
等々…
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。
《以下引用》
彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。(『トマスの福音書』74)
生の源泉(本源)であるプレーローマの周りで人々は自らの個(自我)を保ちながら、多事に明け暮れ、あれこれと頭を突っ込んでは、しばらくは我を忘れて興じる。しかし、その中には誰もおりません、とイエスは言う。…それはただ単に、生の源泉に帰ろうとする人は多くないというだけではなく、その深遠を覗き込むことは、われわれの死(自我の死)を意味しているから、人は無意識の内にそこに帰ることを避けているというのが一つであり、実際、この始めが終りとなるプレーローマへと死のダイブをし、自己が消え去ることを許す勇気ある人しかそこに辿り着くことはできないから、当然の事ながら、そこには誰もおりませんということになる。
《引用終わり》
悟ろうと思えば、なお悟りは遠ざかる…悟りのパラドクス
成就しないことでその純粋が完結する純愛のジレンマにも似ています。
自己を失うことで実現する無自己実現。
この失うべき自己(仮我)の消失を、禅では「大死」と呼んでいました。
キリスト教でも同様の表現があるということですね。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、いのちを失う者はそれを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(『マタイの福音書』)
「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます…自分の命を愛するものはそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。(『ヨハネの福音書』)
等々…
《つづく》
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