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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
主が言われた、「生まれた時より前に存在するものは幸いである。なぜなら、存在しているものはかつて存在したのであり、また、存在するであろうから」(『ピリポの福音書』)

…われわれが知っている自分とは、生まれてから死ぬまでの自己であり、生まれる前に存在した自己などわれわれの想像を超える。しかし、イエスはわれわれの内側には、生まれることもなければ死ぬこともない誰か、あるいは何かが存在すると見ているのだ。それはわれわれが生まれる前にも存在していたし、今も存在し、これからも変わることなく存在するものなのだ。宗教とはこの始め(生)もなければ終り(死)もない永遠なる生(まことのいのち)にかかわるものであり、多くの人がそうであるように、生まれた時より後に存在し、やがて死でもって終る生を如何に楽しく、どううまく生き延びるかなどを問題にしているのではない。
《引用終わり》

宗教とは、「生まれた時より後、死ぬよりも前のこと」に関して思い悩むことをしなくなる境地へと導くものと言えるかもしれません。しかし、その教えを広めるべく設置された施設に人々は集まり、無病息災・家内安全・交通安全・学業成就・商売繁盛を神仏に祈る…そういった事柄に全く価値を見出さない存在であるはずの神仏に対して。

何かの冗談かと思えるほどに、奇妙なことです。

悟りを得られない人、現世への執着を断ち切れない人が大多数であります。そういう人をも救わねばならない。悟ることこそが真の救いなわけですが、そこまで行けない形での救いは無いものか…そういう強い要請があり、苦悩の末に、大きな矛盾を内包した形で今の宗教は出来上がっているんでしょうね。

例えば、司馬遼太郎が「絶対的な虚構」と呼んだものがそれだと思います。そう言えば私も、「虚々実々」というタイトルで、似たようなことを書いていました。

《つづく》