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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
このように自己を認識するものは、自分がどこから来て、どこへ行くかを知っている。彼は酔いしれており、酔いから醒めた者のように自己を知るのである。彼はおのれに帰って、自分のものを整えたのである。(『真理の福音』)

…この真の自己に目覚める時、夢から覚めれば、夢はすべて消え去るように、これまであなたが見ていた幻影の世界はそこにはなく、あなたは視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。つまり、真の自己に目覚めることと真の知識(真理)に目覚めることは同時なのだ。私が真の自己を知ることが宗教であると言うのもそのためであるが、今日、いかがわしいものの代名詞のごとく思われている宗教という言葉を持ち出すことに、私自身あまり気が進まないが、ともあれ、宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もないことだけは言っておかねばならない。しかし、宗教を快く思わない能天気な人はそんな世界などありはしないと言うだろうが、違うのだ。今のあなたである限り、決して見えてこない世界であるからこそ、宗教は自己認識への道、分かり易く言えば、今のあなた(仮我)から真のあなた(真我)に至る道を説くのであり、そのためには外に向かうのではなく、自己自身に帰り、自己の内なる真実を整える必要があるのだ。
《引用終わり》

ここの文章は真我に目覚めることに関する記述なわけですが、「宗教を自己認識への道とするならば、そこに東洋と西洋の区別もない」という指摘がいいですね。

真理に宗教の別も無いはずだし、宗派の別もないはずだし…。真理を言葉に翻訳する過程での違いはどうしても生じるでしょうから、それを由来と見なせる範囲での相違は許容されるでしょうけど。

この辺りの視点を、可藤さんからしっかり吸収したいと思っています。

《つづく》