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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第五章 真知の覚(グノーシス)」を読みました。

《以下引用》
仏教に少し慣れ親しんだ人なら「真知の覚」が無著の『摂大乗論』で説かれるキー・タームであることを知っているだろう。なぜ私が敢えてこの言葉を『トマスの福音書』の副題として選んだかを言えば、グノーシスとは本来、真の知識に目覚めること、すなわち「真知の覚」という意味であるからだ。
《引用終わり》

唯識や『摂大乗論』については少し勉強しましたが、「真知の覚」という言葉は知りませんでした。まだまだ勉強不足ですね。

《以下引用》
…真知に目覚め、本源(プレーローマ)へと帰り着いたものは、世界は変わらないのに、盲人(人間)が視力を回復したかのように世界を新たに見ることになる。…

欠乏が起こったのは一者(父)が知られなかったためである。だから父が知られれば、その瞬間から欠乏はもはや存在しないだろう。ある人の無知は、闇は光が現れれば消え去るように、その人が認識すれば直ちに消え去る。そのように、欠乏も完全の中に消え去るのだ。この瞬間から姿形が見えなくなり、一者との融合の中に消え去るであろう。今は彼らの業が同じく残されているのだ。しかし、やがて一者が場所を満たすであろう。一者の内にそれぞれが自己を受け取るであろう。知識の内に彼は自己を多様性から一者へと浄化するであろう。彼は物質を炎のように呑み込むであろう。そして闇を光によって、死を命によって呑み込むであろう。(『真理の福音』)
《引用終わり》

「真知の覚」について無著はどう書いているか、見てみましょう。

《以下引用》
もし覚時において、一切の時処に、みな夢等の如くただ識(こころ)のみありとせば、夢より覚むればすなわち夢中にはみなただ識のみありと覚するが如く、覚時には何故にかくの如く転ぜざるや。
真知に覚めたる時は、またかくの如く転ず。夢中にありてはこの覚は転ぜず、夢より覚めたる時、この覚すなわち転ずるが如く、かくの如くいまだ真智の覚を得ざる時は、この覚に転ぜず。真智の覚を得れば、この覚すなわち転ず。(無著『摂大乗論』)

夢から覚めるように、どうして虚妄の世界(現実)から目覚め、真実の世界を知ることができないのでしょうかという問に対して、あなたが真の認識に達していないから、と無著も答えている。…

このように、真知の覚とは、われわれが真の認識に達するとき、いわば現実という虚妄の世界が消え去るとともに、その後から真実の世界は立ち顕れてくる、そんな体験をいうのだ。それを宗教的に覚醒の体験というが、荘子が「大覚」と言ったことはその意味をよく表している。しかし、何よりも銘記しておかねばならないことは、われわれが確かなものとして捉えているこの現実が、虚妄(仏教)、幻影(グノーシス)、大夢(タオ)であるからこそ、真実の世界に目覚めるということがあるのだ。
《引用終わり》

要は「悟り」ということでしょうが、いろいろな宗教や思想で共通点があるということは興味深いです。

《つづく》