「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。
われわれはどこから来て、どこへ行くのか…この「どこ」は同じ場所らしい。
《以下引用》
弟子たちにイエスが言った、「私たちの終わりがどのようになるかを、私たちに言って下さい」。イエスが言った、「あなたがたは一体、終わりを求めるために、始めを見出したのか。なぜなら、始めのあるところに、そこに終わりがあるのであろうから。始めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないだろう」。(『トマスの福音書』18)
…弟子たちは…人間の究極的な安息と充溢の場をわれわれはどこに探し求めたらいいのでしょうかと問うているのだ。それに対する彼の答は、未来の何処かではなく、全く反対に、「始めに立つであろう者は幸いである」と答える。要するに、われわれが流出してきた一者(神)の充溢(プレーローマ)の中にこそ、われわれ人間が求めている究極の真理と安息があり、そこに辿りついて初めてわれわれの生は完成されるということだ。…
《引用終わり》
これは十牛図の「第九 返本還源」と同じですね。
エックハルトも同様のことを言っています。「瞑想の心理学」でも引用されていますが、このブログでは引用しなかったのでここで引用します。
《以下引用》
すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一である。原初の始めは最後の終りのためにある。生が一つの存在であるような生の明白な原因の内に連れ戻されない限り、生は決して完全なものとはならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》
イスラム神秘主義(スーフィズム)の思想家モッラー・サドラー(1571-1640)は、この場所を「始源」と呼んでいます。これも「瞑想の心理学」で引用されていました。
《以下引用》
存在について無知なものにあっては、魂がいかにして究極の始源に帰り行き、その旅路の最終点に到達するかについても、全く知らない。(モッラー・サドラ―『存在認識の道』)
《引用終わり》
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第四章 永遠の故郷」を読みました。
われわれはどこから来て、どこへ行くのか…この「どこ」は同じ場所らしい。
《以下引用》
弟子たちにイエスが言った、「私たちの終わりがどのようになるかを、私たちに言って下さい」。イエスが言った、「あなたがたは一体、終わりを求めるために、始めを見出したのか。なぜなら、始めのあるところに、そこに終わりがあるのであろうから。始めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないだろう」。(『トマスの福音書』18)
…弟子たちは…人間の究極的な安息と充溢の場をわれわれはどこに探し求めたらいいのでしょうかと問うているのだ。それに対する彼の答は、未来の何処かではなく、全く反対に、「始めに立つであろう者は幸いである」と答える。要するに、われわれが流出してきた一者(神)の充溢(プレーローマ)の中にこそ、われわれ人間が求めている究極の真理と安息があり、そこに辿りついて初めてわれわれの生は完成されるということだ。…
《引用終わり》
これは十牛図の「第九 返本還源」と同じですね。
エックハルトも同様のことを言っています。「瞑想の心理学」でも引用されていますが、このブログでは引用しなかったのでここで引用します。
《以下引用》
すべての草もまた原初の純粋性においては一である。そこではすべてのものは一である。原初の始めは最後の終りのためにある。生が一つの存在であるような生の明白な原因の内に連れ戻されない限り、生は決して完全なものとはならない。(エックハルト『ドイツ語説教』)
《引用終わり》
イスラム神秘主義(スーフィズム)の思想家モッラー・サドラー(1571-1640)は、この場所を「始源」と呼んでいます。これも「瞑想の心理学」で引用されていました。
《以下引用》
存在について無知なものにあっては、魂がいかにして究極の始源に帰り行き、その旅路の最終点に到達するかについても、全く知らない。(モッラー・サドラ―『存在認識の道』)
《引用終わり》
《つづく》
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