ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

前回までをまとめたような文章を引用しておきます。

《以下引用》
…外側で多くのものを溜め込みながら、足ることを知らず、未だあなたが満たされず混乱しているとしたら、その問題は外側にあるのではなく、あなた自身の内側にあるはずだ。われわれを取り巻く生活環境は進歩と発展を見たけれども、われわれ人間の内なる実存、すなわちプレーローマ(充溢)を知らないことから生じてくる虚しさと焦燥感ではないかということだ。われわれはこの内なる宝(真珠)を顧みないで外側で宝の山を築こうとしている。
《引用終わり》

スーフィズムの偉大なシェイフ、ルーミーも同様のことを言っています。

《以下引用》
世間でいう学問とか技能とかは、いずれも海水を茶碗で量るようなもの。あらゆる技術で身を飾り、金もあり顔も綺麗だが、一番大切な「あのもの」を欠く人がたくさんいる。反対に、見かけはいかにも見すぼらしく、美しい言葉も力強い言葉も喋れないが、永遠不滅の「あのもの」だけは持っている人もいる。それこそは人間の栄光であり高貴さの源であり、またそれあればこそ人間は万物の霊長なのである。もし人間が「あのもの」に辿り着けさえすれば、それでもう己の徳性を完全に実現したことになる。が、もしそれができなければ、人間を真に人間たらしめる徳性とは縁なき衆生だ。(『ルーミー語録』)
《引用終わり》

「あのもの」とは意味深な表現ですが、これに辿りつかないと大変なことになるみたいです。

《以下引用》
イエスが言った、「あなたがたがあなたがたの中にそれを生み出すならば、あなたがたが持っているものが、あなたがたを救うであろう。あなたがたがあなたがたの中にそれを持たないならば、あなたがたがあなたがたの中に持っていないものが、あなたがたを殺すであろう」。(『トマスの福音書』70)
《引用終わり》

今度は「それ」で表現されています。この「死」については、つぎのような表現もあります。

《以下引用》
魂は神を所有することなしには生きることもできず、また死によって身体の苦痛を免れることもできないので、死は存在しないどころか、永遠の死が存在するからである。第一の死は魂をその意に反して身体から追い出し、第二の死は魂をその意に反して身体のうちに留める。(アウグスチヌス『神の国』)
《引用終わり》

「あのもの」とか「それ」というのは「神」なのでしょうか?

「大死一番」ということで、起信論やナスルは、いわゆる「悟り」を「仮我の死」として表現しておりましたが、ここでの「死」は逆の意味のようです。

《つづく》