「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。
さて、いよいよ「私とは誰か」という最初の問に入っていくようです。
「生きる」ということを考え始めると、落ちるところまで気持ちは落ちていくし、そこで死ぬわけにもいかないとなると、どこかでふっ切って、その追求を保留にしなければ何ともなりません。
《以下引用》
気づいたらわれわれはこの世に存在していた。しかも、それはいつかは終る有限の生であると知る。ここから人間は「なぜ」と独り思考することを余儀なくされる。パスカルは、その時、彼を捉えた言いようのない不安を「誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてて怖ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる」と言った。わずか三十九年という短い生涯であったが、彼を死ぬまで悩ませたこの問題に粘り強く立ち向かう人は少ない。もちろん、そういう問があることを人は知らないわけではないが、それには容易に解答が見つからないために、いつしか忙しさの中で忘れ、波々として生を渡る。…
しかし、ナグ・ハマディ文書はそんな人間の無関心と怠慢をよそに、われわれ人間の出自はプレーローマ(充溢)であると言う。そして、プレーローマから流出した人間が行き着いたところが欠乏(貧困)からなる地の国、すなわち二元葛藤する幻影の世界であったのだ。
《引用終わり》
パスカルもそうだったとは、何だか自信が湧いてきそうです。
はて、プレーローマ、充溢とは何でしょう…
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。
さて、いよいよ「私とは誰か」という最初の問に入っていくようです。
「生きる」ということを考え始めると、落ちるところまで気持ちは落ちていくし、そこで死ぬわけにもいかないとなると、どこかでふっ切って、その追求を保留にしなければ何ともなりません。
《以下引用》
気づいたらわれわれはこの世に存在していた。しかも、それはいつかは終る有限の生であると知る。ここから人間は「なぜ」と独り思考することを余儀なくされる。パスカルは、その時、彼を捉えた言いようのない不安を「誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてて怖ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる」と言った。わずか三十九年という短い生涯であったが、彼を死ぬまで悩ませたこの問題に粘り強く立ち向かう人は少ない。もちろん、そういう問があることを人は知らないわけではないが、それには容易に解答が見つからないために、いつしか忙しさの中で忘れ、波々として生を渡る。…
しかし、ナグ・ハマディ文書はそんな人間の無関心と怠慢をよそに、われわれ人間の出自はプレーローマ(充溢)であると言う。そして、プレーローマから流出した人間が行き着いたところが欠乏(貧困)からなる地の国、すなわち二元葛藤する幻影の世界であったのだ。
《引用終わり》
パスカルもそうだったとは、何だか自信が湧いてきそうです。
はて、プレーローマ、充溢とは何でしょう…
《つづく》
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