「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
《以下引用》
イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして生ける者たちは死なないであろう」。(『トマスの福音書』11)…
イエスは人間を死せる者(死人)と生ける者の二つに分けるが、彼が教えようとしていることは、まさに死せる者から生ける者へ、死すべきものから不死なるものへ、如何にして到達するかということだ。…彼はまた、不死なる生を知らず、ただ過ぎ行く肉体に過剰にかかわり続ける死人同様のわれわれ人間を「屍」とも言う。
《引用終わり》
「死人たち」とは、二元性の(幻影の)世界を追いかける人たち(残念ながら我々の殆ど)のことですね。「死せる生」あるいは「生ける死」とはうまい表現(アウグスチヌス『告白』)です。
《以下引用》
イエスが言った、「この世を知った者は、屍を見出した。そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない」。(『トマスの福音書』56)
われわれはこの世に死すべきものとして生まれてくる。が、われわれはそのことを知って生まれてくるのではない。やがてその事実を知ったとしても、自分自身が永遠に「生ける者」であると知らない限り、自分をも含め、この世が屍(死人=死せる者)から成り立っているということが本当には分からない。もし人が自己の真実に目覚め、不死なるものを知ることができたら、この世は死すべき人間(屍)がただ欲望(願望)の赴くまま跋扈しているに過ぎないと明らかに知るだろう。そして、彼は再びこの「死の国」に戻り来ることはないだろう。なぜなら、この世は死すべきもの、過ぎ去るものからなる幻影の世界であり、不死なるものを知った者に「この世はふさわしくない」からだ。
《引用終わり》
お金は、屍が恋焦がれる象徴のようなものかもしれません。「お金なんて、あの世には持っていけないから…」とつぶやく人は多いけど、やはり執着がないわけではない…。
《つづく》
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。
《以下引用》
イエスが言った、「この天は過ぎ去るであろう。そして、その上の天も過ぎ去るであろう。そして、死人たちは生きないであろう。そして生ける者たちは死なないであろう」。(『トマスの福音書』11)…
イエスは人間を死せる者(死人)と生ける者の二つに分けるが、彼が教えようとしていることは、まさに死せる者から生ける者へ、死すべきものから不死なるものへ、如何にして到達するかということだ。…彼はまた、不死なる生を知らず、ただ過ぎ行く肉体に過剰にかかわり続ける死人同様のわれわれ人間を「屍」とも言う。
《引用終わり》
「死人たち」とは、二元性の(幻影の)世界を追いかける人たち(残念ながら我々の殆ど)のことですね。「死せる生」あるいは「生ける死」とはうまい表現(アウグスチヌス『告白』)です。
《以下引用》
イエスが言った、「この世を知った者は、屍を見出した。そして、屍を見出した者に、この世はふさわしくない」。(『トマスの福音書』56)
われわれはこの世に死すべきものとして生まれてくる。が、われわれはそのことを知って生まれてくるのではない。やがてその事実を知ったとしても、自分自身が永遠に「生ける者」であると知らない限り、自分をも含め、この世が屍(死人=死せる者)から成り立っているということが本当には分からない。もし人が自己の真実に目覚め、不死なるものを知ることができたら、この世は死すべき人間(屍)がただ欲望(願望)の赴くまま跋扈しているに過ぎないと明らかに知るだろう。そして、彼は再びこの「死の国」に戻り来ることはないだろう。なぜなら、この世は死すべきもの、過ぎ去るものからなる幻影の世界であり、不死なるものを知った者に「この世はふさわしくない」からだ。
《引用終わり》
お金は、屍が恋焦がれる象徴のようなものかもしれません。「お金なんて、あの世には持っていけないから…」とつぶやく人は多いけど、やはり執着がないわけではない…。
《つづく》
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