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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第一章 危ういかな人間」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「もし彼らがあなたがたに、『あなたがたはどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いなさい、『私たちは光から来た。その光は自ら生じたのである。それは自立して、彼らの像において現われ出た』。もし彼らがあなたがたに、『それがあなたがたなのか』と言うならば、言いなさい、『私たちはその光の子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなたがたに、『あなたがたの中にある父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」。(『トマスの福音書』50)
《引用終わり》

この問答はどんどん核心に迫っているわけで、最後のQ&Aが最も重要な気がするんですが、回答の意味が分からなくてズッコケます。

「光」というのも何なのか。ビッグバンのことを意味するのか。何も答えにはなっていない。私たちが来たところは「光」という名前を与えられたけれど、ブラックボックスであることに変わりはない。

それは後の展開を待つとして、ここでは以下の指摘が重要です。

《以下引用》
…つまり、人間は原初の光から自然に形(像)をとって現われてきたというのだ。仏教はそのような生成の仕方を胎生や卵生と区別して化生と呼ぶ。そして、イエスひとりが神の子ではなく、われわれもまた神の子であり、あらゆるものがその源泉である神から自然に生じてきたということだ。しかし、伝統的なキリスト教はこのような思想を彼らの教義の基本に悖る不遜として、決して容認しないだろう。

「永遠なる父はわれわれが同じ神の子であることを教えようとしている」という考えを持っていたエックハルト(1260-1327)が異端の疑いをかけられ、弁明に勤めたにもかかわらず、彼の死後、異端として断罪されたように、『トマスの福音書』がイエスのアポクリュフォン(隠された言葉)として歴史の表舞台から秘匿され、埋蔵される運命を辿ったとしても何の不思議もない。
《引用終わり》

大乗仏教を信仰する人は、将来は仏となることを目指す菩薩という立場に自動的になります。宗派によっては即身成仏まで唱えています。ここに仏教の救いの一つがあるように思います。それに対して、キリスト教では、神と人間の間に絶対に越えられない境界があることになっています。

しかし、神と人間の間に絶対的な隔たりがないという考え方がキリスト教にもあったとしたら、大乗仏教の中に見出せる光明をキリスト教の中にも見出せることになります。『トマスの福音書』はキリスト教のその「光」の部分なのかもしれません。

その「光」が、暗い箱の中に封じ込められていた…。

私自身、キリスト教には途轍もなく暗いイメージを漠然と感じています。これはクリスチャンの方々には不愉快かもしれませんが、私の勝手な感覚として、御勘弁下さい。

一番象徴的なのは十字架。要するに処刑台なわけです。それを祭壇の上に高々と掲げ、蝋燭で照らして、皆で拝む…原罪に苛まれ、近寄ることの許されない「神」としてひたすら拝む…現代のストレス社会で、キリスト教ではどうしても救われずに、仏教を信仰し始める人々が欧米にいると聞き、何となく納得できる思いがしました。

『トマスの福音書』が明かすイエスのアポクリュフォン。これがキリスト教に取り込まれていたら、その人々は改宗することもなかったかもしれません。

《つづく》