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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第四 得牛」を読みました。

《以下引用》
人が美しいものに心惹かれ、いとおしく思うのも、それが内なる真実の反映であるからに違いない。しかし、美の写しの定めとしていつかは滅び、土(humus)へと帰っていく。その悲しみをわれわれは何度も経験している。愛を求めた果てになお狂おしく、切ない思いに駆り立てられるのも、実は、反映の向こうに真実なるものを予感しながら、どうしても届き得なかったことからくる諦めにも似た虚しさからではなかろうか。地上の愛は、逆説ではあるが、その不完全さを知ることにあるのかも知れない。というのも、他者に求めた真実は、実は最も近いところで自分自身の内に有り、それを見出したときに初めてわれわれは愛すべきは、諭すべきは何かを知るのだ。…
《引用終わり》

人を愛する時、相手の内なる真実への思いであるならば、初めは純粋に美しいのかもしれません。でも、妄念としての心の性なのか、「真実」は形骸化し、ただそれを思うことだけに酔い、その人を獲得することだけに執着するようになる…「愛」を抱くものが妄念である以上、アガペーのようなものに止揚することは極めて稀だと思われます。ゆえに、仏教で「愛」は執着を意味します

同様の私見は、「不邪淫」とか「夫婦同性」とか「空海の風景」でも書いていますのでご覧下さい。

成就しない「愛」だけが真実のままでいられるとしたら…これは、消え去ることでしか真実の姿になれない「心」と全く同じ構造ですね。

《以下引用》
…広劫よりこのかた生死の苦海に沈淪してきた私が、その正体である妄動する輪廻の心をやっと捕えたところが「得牛」である。しかし、心(牛)を捕えてみたものの、妄動する心を繋ぎとめるのがやっとで、とても心を除くまでにはいたらない。

精神を竭(けつ)尽(じん)して 渠(かれ)を獲得す
心強くし力壮(さかん)にして 卒(にわ)かに除き難し

心は良くも悪くもありとあらゆる想念を生み出すプロジェクターのようなものであり、われわれは実際そこには存在しないにもかかわらず、スクリーン上に次々と現れる映像を見て、喜んだり悲しんだりと自らの心を乱しているのだ。さらに心は、上は天国から下は地獄まで「自心所現の幻境」に自ら迷い、一瞬たりとも落ち着くということがない。

有る時は纔(わず)かに高原の上(ほと)りに到り
又(ま)た煙雲の深処に入って居(きょ)す
《引用終わり》

それに対する思いが強いければ強いほど、それは力強く、
押さえようとすればするほど、それは暴れる…

《以下引用》
…心というものは二元性しか理解できない。しかもわれわれはずっと二元論的な思考方法に慣らされてきているために、どうしてもこの心から離れられないのだ。しかし、この心を除かない限り、対立二つながらの源である一元性の世界(法界一相)を知ることができない。そのためには妄りに動く執拗な心(頑心)を、一切の分別を挟むことなく注意深く観察すること(鞭楚)が必要なのだ。…

頑心は尚(な)お勇み、野性は猶(な)お存す
純和を欲得(ほっ)せば、必ず鞭(べん)楚(そ)を加えよ
《引用終わり》

この鞭楚が止観双修ということでしょうか…。

《つづく》