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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「自己実現」を読みました。

止観双修によって至る境地心真如の相ニルヴァーナ一元性の世界離言真如転識得智心源(大海水波の比喩)真如門大死(仮我の死)大覚と、いろんな言葉で表現されてきました「悟り」。今回はキリスト教から引用したいと思います。

《以下引用》
一なるものを私は見ることができない。パウロは何も見ていなかったが、それは神であった。神は無であるが、また一なるものである。(エックハルト『無である神について』)

「一なるものを私は見ることができない」とはエックハルトの卓見であり、恐らく彼自らの悟りの体験から得られた結論であろう。というのも、われわれ人間は二なるもの(二元性)しか見ることができず、徒に混乱しているからだ。そして、パウロが目は開いていたにもかかわらず何も見ていなかったというが、実は、すべての被造物が無となったその時、彼は神を見ていたのだと、エックハルトは自らの体験に照らして理解したのだ。この無であるとともに、一なるもの(神)をわれわれは肉眼(衆生眼)を通して見ることはできない。

このように、被造物を無、あるいは空こそ人間にとって最も貴重な時であり、体験的に真理(一なるもの)を知る瞬間でもあるのだ。
《引用終わり》

私はキリスト教についてもあまり詳しくは知りませんが、天地創造は、闇の中に光を創り、昼と夜を創り、天と地を創り…ということになっているようです。この妄念の共同幻想の世界が、二元性の導入によって創造されていると読むことができそうです。仏教もキリスト教も根本的なところは一緒のようです。本書ではイスラームからの引用も多く、イスラームについても同様のことが言えそうです。

《以下引用》
これが仏教(宗教)における自己実現の意味であり、何よりも無自己(無我)を実現することなのだ。決して自己を実現することではない。それはいわば人の道であり、それがどんなものかはこれまで縷々述べてきたところから明らかであろう。そして、宗教的に自己を実現したとき、その後には『起信論』が言うところの「自然業(利他)」あるのみ、というのも「私が見ているものは私自身にほかならない」(ビスターミーの言葉)からだ。
《引用終わり》

《つづく》