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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第一章「認識論―不覚無明」の「メビウスの帯」を読みました。

この本は、仏教に限らず、別の宗教や、科学書からの引用も多く、興味深いです。

《以下引用》
…思い出されるのは『旧約聖書』の「創世記」である。「善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、きっと死ぬであろう」というのも、同じ人類の悲劇の幕開きを物語るものであり、神の国から地の国へ(『起信論』的に言えば、一法界から妄境界へ)転落した人間の「始源の裂け目」に認識の問題があり、われわれが何の疑義を抱くこともなく当然のこととして是認してきた、主客の二元論的な思考方法の中に、極めて重大な欠陥あるいは矛盾がありはしないかということだ。…

われわれは行為(身・口・意の三業)について是非・善悪を言うが、「六麁」で説明されたように、表面に現れたところだけを取り上げて論じてもあまり意味がない。すべての行為が起こってくる根底に心源の不覚無明があり、その不覚の心(妄心)がさらに主客の二つに分裂し、そこから愛・不愛(智相)というようにして行為が始まっていることなど全く考慮されていないからだ。
《引用終わり》

非常に高級な理念・理論のように聞こえても、結局は計名字相のプロセスが入念だというだけのことです。だから、どんなに高級な議論の対立であっても、どんどんと元を糺していくと結局は好き嫌い(愛・不愛)に帰着するんだと思います。

そこまで気づくことができれば、論争はバカバカしくなるんでしょうけどね…。

《つづく》