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「意識と本質―精神的東洋を索めて」(岩波文庫)
「意識と本質 2」を読みました。

「本質」の虚妄性を説く仏教とは反対の立場で、「本質」に向き合ってみますと、個体的「本質」と普遍的「本質」に分けることができます。これはイスラーム哲学では初歩的な常識だそうで、個体的「本質」をフウィーヤ、普遍的「本質」をマーヒーヤと呼ぶそうです。

私的には、固有名詞と普通名詞で区別すると分かりやすいんじゃないか思います。男女にからめると更に分かりやすいかも。

普通名詞として、「女」が好きだ!と言えば、「女」に分類されるもの全てが好きだということになります。要は「女」なら誰でもいいと。固有名詞として「○○さん」が好きだ!と言えば、「○○さん」でなければダメということになります。例え、最初は女性として意識して好きになったとしても、今となってはどうでもいい。実は「男でした」と告白されても、心が変わらなければ本当に「○○さん」が好きだということになります。

「最も典型的、あるいは理想的女とは?」と追及したものがイデアであり、プラトン哲学の方法だと思います。いわゆる「本質」とはそういうものかな…と思っておりました。でも、個体的「本質」というのもあったんですね。

個体的本質にとことんこだわったのが本居宣長なんだそうです。そして、リルケのような詩人も個体的本質を追求するというのも何となくうなづけます。普遍性・再現性を重視する科学者は全く逆と言えます。

《以下引用》
「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転換する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。
《引用終わり》

先のオッサン的喩えに戻れば、これが恋の瞬間ということでしょうか(笑)。

《つづく》