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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真如―空と不空」を読みました。

以前、依言真如としてまとめておりました。

《以下引用》
…われわれが心(妄心)でもって一瞬一瞬(念念)に分別し、心ゆえに二元相対の世界が現れ、真実の世界を翳しているのであるから、われわれが空ずべきは、あるいは離れるべきは自分自身の心(妄心)であり、その心を離れることさえできればそれでいいと理解しているところが、『起信論』の「空」理解の非常に重要なところなのだ。

しかし、心を空ずると、後には何もないのかというと、そうではなく、…真実ならざるもの(妄境界)が空じられるだけであって、真実なるもの(一法界)までもがなくなってしまうのではないから、『起信論』は「如実不空」と言う。
《引用終わり》

井筒先生の文章も併せて読むとより分かりやすいと思います。

「Aである」と言って、その舌の根も乾かぬうちに「非Aである」と言っているような表現方法です。矛盾に満ちたまったく意味を成さない文章のようにさえ見えます。しかし、逆に言うと、言葉で表現し得ないものを表現した場合にはこうなるということなのかもしれません。

言葉でスッキリ表現できるということは、妄境界を語っているということです。そしてこれが因分可説・果分不可説ということなのでしょう。

論理矛盾のような表現を用いることによって、果分可説の道が開けるということかもしれません。

《つづく》