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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真如と言葉」を読みました。

二元性の世界を象徴するのが言葉だと思います。言葉を元にして一元性の世界を目指すこと、それが離言真如ということになります。

《以下引用》
妄りに心が起こるということは、言葉でもってさまざまな思いを表現することだ。われわれは言葉を尽くして、是非・善悪を論じ、いろんな価値や意味を自分なりに勝手に造り出すが、かえってさまざまな問題を抱え込む言語ゲームの世界、すなわち戯論の世界へと入っていく。しかし、そういう心(妄心)を離れていくならば、やがて言葉というものが消え、次第に沈黙の世界へと入っていくであろう。…言葉というのは、とりわけ真理に至る実践の道を辿ろうとする場合、ただ言葉を離れるために言葉を利用するに過ぎない。
《引用終わり》

言葉は何事をも正確に語り尽くすことなどできません。真如などという究極的なモノに限らず、日常的な会話でさえ言葉を離れた時に理解は生じるのかもしれません。

《以下引用》
言挙げを必要とするのは虚妄だけであり、その証拠にわれわれはこれまで主義、主張、理念など、いろいろと声高に叫んできたが、一体それが何を生み出したか、少し歴史を顧みれば分かるはずだ。そんなものはすべて心(妄念)の生み出した妄想であり、結局、政治的、思想的、経済的に混乱を招いただけであり、総ては崩れていった。これからも人間が心というもの、同じことであるが、実体のない単なる言葉を連ねた思考の本質を根本的に問い直さない限り、立ち上げてはどんどん崩れていくことだろう。
《引用終わり》

大きな結論に達したような気がするのですが、まだ序章です。

《つづく》