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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「一法界と妄境界」を読みました。

《以下引用》
『心真如とは即ち是れ一法界にして、大総相、法門の体なり。謂う所は心性の不生不滅なり』(『起信論』25)。一法界(法界一相)、あるいは一元性の世界に帰り行くこと、同じことであるが心真如(真心)を知ることが『起信論』全体の目的なのだ。イスラーム神秘主義(スーフィズム)の代表的な思想家であるイブン・アラビーが言う存在一性の世界もこれに当たる。
《引用終わり》

言っていることは同じだと思うんですが、別の表現を読むことで理解は深まります。

《以下引用》
言うまでもなく、現在われわれは一法界(一元性)の世界を見ているのではなく、生死、善悪、愛憎、美醜、是非、幸不幸…など、二元相対する差別の境界を見ている。このようなさまざま境界を作り出すために、世界は複雑に錯綜し、問題はさらなる問題を作り出していく。そして、それはどこから生じてくるのかというと、われわれ自身の心(妄心)であり、妄りに心が起こるがゆえに、二元葛藤するさまざまな境界が現れてくるのだ。従って、その原因である妄心を離れ、真心を知るならば、われわれは二元性の世界を離れて一元性の世界(一法界)に帰っていくであろうと『起信論』は見ているのだ。「一切の諸法は唯妄念(妄心)に依りてのみ差別あるも、若し心念(妄心)を離るるときは則ち一切の境界の相は無ければなり」(『起信論』25)。
《引用終わり》

イスラーム神秘主義にも同様の考え方があるというのは興味深いです。キリスト教批判に聞こえなくもないが…。

《以下引用》
…愛情ですら二元論の源である。そして、二元性の跡もなく、純粋一元性の世界も存在する。とすれば、その一元性の世界に到達した人は、愛も憎しみも共に超えた人でなければならない。その世界には二元性の入る余地は全然ないのだから、そこに至った人は完全に二元性を超越しているはずである。従ってまだ二元性の支配していた最初の世界、つまり愛情や友情の世界は、今やその人が移ってきた一元性の世界に比すれば、どうしても低級と言わざるを得ない。(『ルーミー語録』)
《引用終わり》

華厳経の中に多く見られ、仏教的考え方だと思っていたホロンも、『イーシャ・ウパニシャッド』の冒頭に見られるようです。

《以下引用》
あれもこれもどれひとつとして全体でないものはない。それらは全体から生じてくる。しかし、全体からそれらを取り出しても、そこには依然として全体が残る。(Isa Upanisad)
《引用終わり》

《つづく》