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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「真実と虚妄」を読みました。

《以下引用》
…太陽や月の光が輝いていても、目の不自由な人にとって闇としか映らないように、そうと見ることが出来ないのはわれわれ人間(衆生)の側に問題があり、心が浄ければ、ここはすなわち浄土である。…

…われわれが存在しているこの世界が虚妄の世界(穢土)であるか、真実の世界(浄土)であるかということは、われわれ自身の問題ということになる。…

そして、この穢土を浄めるというのは、われわれがこの矛盾に満ちた世界に直接手を下し、改革したり、ソフィスティケイトすることではなく、問題はわれわれ自身の心の問題に還元されるということだ。だから『起信論』という書物は、最初にあくまでも大乗とは何かを定義して、それは衆生心、すなわちわれわれ自身の心であると明言し、その心に真心(心真如)と妄心(心生滅)の二つがあるとしたのだ。そして、真心ならば真実の世界、妄心ならば虚妄の世界となる。
《引用終わり》

ある異常な犯罪者の登場に対して、その犯罪者自身の病理と捉えるか、その犯罪者をとりまく社会の病理と捉えるか…。

この世を穢れたものと捉えた上で、穢れた世の中で生きていくためには自分の心を鍛えていかなければいけないというスタンスが、古き良き日本には有ったような気がします。その態度は、西洋人の目には、外部環境の改善を諦めてひたすら適応しようとする消極的な生き方と映ったことでしょう。

しかし、近代における環境への積極的な改善活動は、この世界を汚しこそすれ、清めてはいません。もちろんこれは物理的・化学的汚れであって、哲学的な穢れとは違いますが(違うはずですが)、この世が汚れるほどに人の心も穢れているような気もします。

この奇妙な符合は、継続可能な社会を支える哲学として大乗が適していることを示唆しています。

《つづく》