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新「公文式算数のひみつ」の「第三章 東大へ現役で合格できるひみつ」を読みました。(小林教室収蔵

公文式に限らず、勉強することの目的が「東大」というのは寂しいことですが、その先にある大目的への通過点として、東大現役合格はひとつの目安にはなるでしょう。この章のタイトルは、その程度に抑えておいて…

その華々しい通過を達成した、松本君の手記より。
《以下引用》
…公文を学習した人は計算が速いといいます。たしかにそうでしょう。でも、それは開発された能力の一部にすぎません。“速く”なったのは計算だけではなく、読む力、書く力、すべてを含めた“処理能力”なのです。僕が公文で身につけたもの、それはこの処理能力なのです。

この処理能力は、勉強面だけでなく、社会に出てからもきっと役に立つことでしょう。

ですから、公文をやったからといって、だれでもすぐに成績が上がるというのは、かならずしも正しくないように思います。

公文の数学を学習しても、かならずしも知識は身につきません。処理能力、知識吸収力が身につくのです。

この処理能力を持って勉強したとき、ほかの人の半分の時間で、同等以上の成果をあげることができるのです。これは非常に大切なことです。高校入試、大学入試においては、この能力の差が、結果に大いに影響するのです。
《引用終わり》

単にこの次のテストで良い点を取るための勉強法(あるいは学習塾)というのもあると思います。でもそれは、病院で言ったらターミナルケア(今日明日を楽しく過ごせればいい。元気に退院することはできない。)に似ています。あるいは、魚を与えるか、魚の獲り方を教えるか、の違い。要するに、目先だけを選ぶか、将来を選ぶか、です。

次は久野君の場合。彼は、自分なりの勉強法(独自のノートなど)を開発し、授業はちゃんと聞きながらも内職。
《以下引用》
・・・小学生の場合、算数の文章題が苦手という例があるが、そのような子どもたちはほとんど例外なく国語力、とくに読解力が不足している。久野君の場合は、早くから国語力の充実をはかっていたので、「考える数学」を勉強していくためにも、鬼に金棒だったと言えるかもしれない。…

「…学校と同じことを、同じかたちで一斉授業としてやるのは、無意味だと思ったんです。だから一般の塾や進学塾はもちろん、予備校にも行かなかった。自分からする勉強がいちばん大事だと思うんですよ。」

…一斉授業が、クラスの全員にいつも「ちょうど」とはかぎらない…。生徒の立場から言うならば、わかりきった授業など聞く必要はないし、反対に、わからない授業など、聞いてもしかたがないのである。
《引用終わり》

最後は鈴木君からのアドバイス。
《以下引用》
・・・勉強をたとえると、学校は正規のクラブ活動で、講座のメニューを組んである一般塾は、朝練習のようなものである。放課後のクラブ活動も朝練習も、まじめにやるのは当然だ。

しかし、他人に差をつけようと思えば、寝るまえの腕立て伏せや、人知れぬボールの投げこみがものを言うではないか。自分に妥協せず、体力づくりをする場所として、公文が適していると思う。
《引用終わり》

私も、公文は体力づくりに似ていると思います。野球やサッカーといったそれぞれの競技に特化した種々のメニューを網羅しているものではありません。しかし、どの競技をするにも共通して求められる体力や運動能力をつけるメニューだけが厳選され、難易度ごとに準備されています。

国数英を体育と同じ技能教科と捉える見方もあります。

《つづく》