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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心性本浄と客塵煩悩」を読みました。

『起信論』はわれわれの心を妄心(心生滅)と真心(心真如)の二相に分けています。空海は妄念と本心に(『一切経開題』)。

《以下引用》
心性とは心の本性という意味であり、それは本より浄いということで「心性本浄」という。しかし、現在その心(心性)はさまざまな心(それを「客塵煩悩」と言う)に覆われて見えなくなっている。

…心真如(真心)を、今もわれわれは携えているけれども、それが客塵煩悩によって覆われているために、われわれは迷いに迷いを重ねているということだ。そして『起信論』は、心が生滅を繰り返す時間に属しているのに対して、心性を不生不滅という意味で永遠であるとした。その心性が妄りに起こる心(妄心)によって覆い隠されているために、われわれはそれを知らず、それがために生死の苦海(親鸞の言葉)に身を淪める常没の凡夫となって、一向に真実が何であるか分からないでいる。
《引用終わり》

『仏教入門』で高崎直道先生は、煩悩が起こってしまうことに対する説明として、如来蔵思想と唯識それぞれに説明の不十分な点を指摘しています。

が!可藤豊文先生は、「なぜ起こるかは後述」と書いているので、楽しみにしたいと思います。

《つづく》