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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「一.修行の階梯」の「心の転換」を読みました。

《以下要約》
転依の「依」はもともとは身体の意味。唯識説でもそうですが、アーラヤ識の身体維持機能が心身の同一性を保っているので、結局はアーラヤ識ということになります。

アーラヤ識は日常的なあり方では、マナスとしてはたらき、自我意識を生み、六識としての各種の認識、総じて主客・自他の分別を起こして、いろいろな煩悩を生み、業を引き起こし、苦につながります。

そのアーラヤ識が、仏の教えを繰り返し聞くことによって聞薫習力がはたらくと、アーラヤ識としての機能を失います。上記の一切がなくなり、唯識性に入る。つまり、さとりであり、涅槃です。

このとき、心身の統一体は存続していますから、アーラヤ識の身体維持機能は有効なはずです。つまり「依」は同じであるが、その土台の上の機能は識から智へ転換しているので所「依」としての性質が「転」換したと見るわけです。

転依を得た菩薩は、輪廻生存において自由自在になり、どんな衆生の間にも現れ、教え、巧みな方便を用い、人々を導きます。

生死の苦悩は消滅し涅槃を得ているはずですが、輪廻の世界にとどまっているので涅槃には入っていません(無住処涅槃)。そこでは生死と涅槃がひとつになります。
《以上要約…詳しくは本書参照》

《つづく》