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不殺生という戒めは、誰もが当たり前と考えることかと思います。
「人殺しは悪いに決まってるじゃないか!」

そして、つい、「他の生き物も殺してはいけないんだ!」と言ってしまいがちです。そんなとき、ドキリとしてしまいそうな厳然とした事実があります。

「生命は生命を食べて生きている」ということ。「人は何かを食べなければ生きられません。何かとは他の生き物。他の生き物を殺し続けながら、私たちは生きていかなければならない。」ということ。

確かに、昨日牛肉を食べた。今朝、お魚を食べた。でも、僕が殺したんじゃない。死んだ牛の肉塊を買って来たんだ。死んだ魚を買って来たんだ。

殺したのは僕の知らない、誰かさ…

でも、誰も買わなかったら、その「誰か」は牛や魚を殺さなかったはず。だとしたら、間接的ではあるにせよ、金を払って殺しを依頼したことにはなりませんか?

でも、それを責めるつもりはありません。だって、そうしなかったら、私たちは生きられないのですから。「不殺生」の戒めは、他の生き物の「死」の上に私たちの「生」が成り立っているのだということを忘れるな!ということだと思います。

さて、死刑制度についても同じことが言えそうな気がするのです。私は死刑を宣告したことはない、私は死刑を執行したことはない、と皆今まで思っていたのです。でも、この制度を変えようという行動も特に起こさず、裁判官や執行人に納税という間接的な形ではあるにせよ代金を払っていたわけです。

でも、それを責めるつもりはありません。死刑制度の是非を問題にするつもりもありません。ただ、私たちはそういう形で、自分たちの社会を守るために、つまりは自分たちの平和な「生」のために、共存できないと判断した犯罪者を「死」に追いやったということは、ひとりひとりが自覚しなければいけないということです。

その自覚のためには、裁判員制度は有効であると思います。一般の人間が、死刑を宣告した重みを背負うのはいかがなものか?という議論ばかりがなされているようです。でも、本当の問題はこれまでその重みを背負っていなかったということではないでしょうか?

裁判員制度は、それ以外の論点で評価されるべきと考えます。