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「空海の夢」(春秋社)
「15.対応と決断」を読みました。

最澄が空海を認めてくれたことにより、最澄との微妙な友情関係を構築し、国内での足場固めをする時期を「対応」とし、最澄と決別し密教と顕教を対峙させる瞬間を「決断」としています。

“他者の眼”を気にせず行動したと思われる最澄と、“他者の眼”を計算して動いた空海との差が描かれています。

《以下引用》
…すでに平安仏教界の第一人者となっていた最澄が、まったく惜しみもなく空海の密教活動の拡大することに力を貸したのだ。おかげで朝野の在俗の士も最澄のプロモーションに心を動かされ、空海の評価はいやがうえにも増すことになった。

こうした事態に一番驚いたのは南都の仏教界であったろう。南都諸宗を攻撃する最澄が空海に三顧の礼をつくしているのだから、これはただならぬ状況の変化と映った。しかし最澄自身はこれらのプロモーション活動を展開するうちに、しだいに密典秘籍にたいする関心から『大荘厳論』などによる密教的助力を重視するという関心に移っていった。「一乗の旨、真言と異なるなし」という主張をしだいに強める最澄なのである。

《引用終わり》

南都諸宗を攻撃する最澄、空海がこれを討つことを画策したであろう南都諸宗の僧たちのことは以前も書きました。最澄と空海の接近をハラハラしながら見ていたことでしょう。

《以下引用》
…ひるがえってみれば、空海も当初は最澄からもたらされるやもしれぬ天台止観に多少の期待があったのだろうし、最澄がしきりに求める“秘密宗”についての典籍貸与や法門教授についても、いったい自分の構想する大いなる術がこの当代随一といわれる最澄の眼にどのように判断されるかを知っておきたかったのだろうとおもわれる。それに、この時点までは空海の密教思想を中央の誰が正当に評価したわけでもなかった。もとより嵯峨天皇や冬嗣は文化や政治の関心で空海を見ていたのであったし、広世や真綱も外護者の立場にとどまっていた。僧綱所には密教思想の十分の一も理解できる者はない。唯一、最澄こそが空海の本意とはいわないまでも、その方向を評価していただけである。

こういう事情では、空海もしばらくの沈黙による「対応」をはかっているしかなかった。その存分の「対応」が可能であったこと自体、空海の怖るべき思想の重量をわれわれに、伝えるものであるが、さらに「対応」がいつしか完了を迎え、いつのまにか緊張をみなぎらせた「決断」におよんでいるというその急転直下にもいっそう驚かされるところであった。

《引用終わり》

「顕教とは報応化身の経、密蔵とは法身如来の説」という表明あたりを皮切りに、空海の決断が遂行されていきます。

著者は、果分可説の表明を「すこぶる強烈」と書いています。そう言われて、私も少し考えてみたら、宇宙観が少し変わったような気がします。

《つづく》