「唯識入門」(春秋社)
「第二章.認識の構造」の「二.まよいからさとりへ」を読みました。
『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第四偈が出てきます。
(1.4abc)それゆえに、それ(すなわち識)が虚妄なる分別であることが成立した。なんとなれば、(識は)そのままに(真実として)あるのでもなく、また、あらゆる点でないというのでもないからである。
(1.4d)(なんとなれば)それ(すなわち識)が滅尽することによって、解脱のあることが認められるからである。
―――
識が顕わし出した対象は「虚妄」です。しかし、真実ではない対象を顕わし出す分別のはたらきは「ある」ということになります。
ただし、この分別は、実在しないものを顕わし出しているわけだから、真実の、あるべきあり方のはたらきをしているわけではありません。
分別のはたらきが「ある」という点にこだわるのは、これが修道を実践の主体となるからです。価値的にあるべきものとしての有ではなくて、事実としての有です。これがなければ実践が成り立たないのです。
虚妄分別は、まよいからさとりへの転換を要請される実践主体です。虚妄分別が迷っている現実の状態を「汚染の存在」、さとりへ向かって動き出した状態を「清浄な存在」と呼びます。
《つづく》
「第二章.認識の構造」の「二.まよいからさとりへ」を読みました。
『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第四偈が出てきます。
(1.4abc)それゆえに、それ(すなわち識)が虚妄なる分別であることが成立した。なんとなれば、(識は)そのままに(真実として)あるのでもなく、また、あらゆる点でないというのでもないからである。
(1.4d)(なんとなれば)それ(すなわち識)が滅尽することによって、解脱のあることが認められるからである。
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識が顕わし出した対象は「虚妄」です。しかし、真実ではない対象を顕わし出す分別のはたらきは「ある」ということになります。
ただし、この分別は、実在しないものを顕わし出しているわけだから、真実の、あるべきあり方のはたらきをしているわけではありません。
分別のはたらきが「ある」という点にこだわるのは、これが修道を実践の主体となるからです。価値的にあるべきものとしての有ではなくて、事実としての有です。これがなければ実践が成り立たないのです。
虚妄分別は、まよいからさとりへの転換を要請される実践主体です。虚妄分別が迷っている現実の状態を「汚染の存在」、さとりへ向かって動き出した状態を「清浄な存在」と呼びます。
《つづく》
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