「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「五.空性と有」を読みました。
虚妄分別の有
唯識説で「虚妄分別は有り」と言っているのは、自性をもって存在するという意味ではありません。虚妄に分別したり、ひるがえって正しい判断をしたりする主体、修行の実践主体を眼目において「有る」と言っています。実践主体とは我々一人一人であり、そのあり方は縁起(「依他」)しています。
唯識説では、実践主体(を指示する「虚妄分別」)を除いて、あらゆる法を、我の観念とともに、縁起したものではなく、ただ概念として設定されたもの、仮構されたものとみなします。
竜樹は、すべての縁起したものは概念として設定されたものとしました。唯識説は、縁起したものと、概念として設定されたものを再び分けました。ただ、仮構されたものの存在性を徹底的に排除し、仮構する機能の中に吸収してしまいました。「仮構されたあり方」のものが、「縁起したあり方」のもののほかに別にあるのではありません。
空性の有
「虚妄分別に空性がある」=「虚妄分別は空性について不空」というのは、竜樹のように無自性の意味にとっても、唯識説のように虚妄分別に二つのないことの意味にとっても、その空性なるものが諸法なり虚妄分別なりのほかに実在するわけではありません。それは空であることという道理という意味で真実ではありますが、存在するものではありません。
空性のあり方が、空なるもの(諸法なり虚妄分別なり)を貫いているということです。
さとりとしての空性
空性にはさとりの意味もあります。さとり、つまり円成実性のあることを認めないと修行が無意味になってしまいます。虚妄分別が、その意識から所取・能取の二の実在という観念を捨てることによって実現する境地として、虚妄分別と別ではありません。このような「完成したあり方」としての虚妄分別は、そのとき智と呼ばれます。虚妄分別は智に転換します。
同じことを、この智(無分別智)は空性を見る(さとる)とも表現します。このあり方は、さとりによって(さとったものの智の内容として)はじめて現われますが、さとっても、さとらなくても、ものの真実のあり方としては不変である道理です。その意味で実在とも言えると、瑜伽行派は考える傾向がありますが、中観派は徹底的に排除します。
このようなさとられた真実としてのあり方としての空性は、「真如」とか「法界」とか「実際」などと表現されます。
ブッダとしての空性
この空性をさとったもの、つまり仏は、そのさとりにおいて、能所の二が空となった方ですから、その智と空性とがひとつとなっていると解釈します。法(真理)とひとつになった身という意味で「法身」と呼びます。
これは如来蔵思想の基本をなしている考え方で、唯識説も、仏身観においては同じ考えを示しています。この法身は、「法界」という言葉同様、全てに遍くゆきわたっているとされ、「どんなものでも、法身(法界)の外にあるものではない」。「虚妄分別(個々の実存者)はすべて空性においてある」(空性はすべての存在に通徹している)ということになります。
電磁気学とかでも、電荷というミクロからのアプローチと、電場というマクロからのアプローチがありますが、唯識説と如来蔵思想の間にも、何かアプローチの違いのようなものを感じます。
《つづく》
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「五.空性と有」を読みました。
虚妄分別の有
唯識説で「虚妄分別は有り」と言っているのは、自性をもって存在するという意味ではありません。虚妄に分別したり、ひるがえって正しい判断をしたりする主体、修行の実践主体を眼目において「有る」と言っています。実践主体とは我々一人一人であり、そのあり方は縁起(「依他」)しています。
唯識説では、実践主体(を指示する「虚妄分別」)を除いて、あらゆる法を、我の観念とともに、縁起したものではなく、ただ概念として設定されたもの、仮構されたものとみなします。
竜樹は、すべての縁起したものは概念として設定されたものとしました。唯識説は、縁起したものと、概念として設定されたものを再び分けました。ただ、仮構されたものの存在性を徹底的に排除し、仮構する機能の中に吸収してしまいました。「仮構されたあり方」のものが、「縁起したあり方」のもののほかに別にあるのではありません。
空性の有
「虚妄分別に空性がある」=「虚妄分別は空性について不空」というのは、竜樹のように無自性の意味にとっても、唯識説のように虚妄分別に二つのないことの意味にとっても、その空性なるものが諸法なり虚妄分別なりのほかに実在するわけではありません。それは空であることという道理という意味で真実ではありますが、存在するものではありません。
空性のあり方が、空なるもの(諸法なり虚妄分別なり)を貫いているということです。
さとりとしての空性
空性にはさとりの意味もあります。さとり、つまり円成実性のあることを認めないと修行が無意味になってしまいます。虚妄分別が、その意識から所取・能取の二の実在という観念を捨てることによって実現する境地として、虚妄分別と別ではありません。このような「完成したあり方」としての虚妄分別は、そのとき智と呼ばれます。虚妄分別は智に転換します。
同じことを、この智(無分別智)は空性を見る(さとる)とも表現します。このあり方は、さとりによって(さとったものの智の内容として)はじめて現われますが、さとっても、さとらなくても、ものの真実のあり方としては不変である道理です。その意味で実在とも言えると、瑜伽行派は考える傾向がありますが、中観派は徹底的に排除します。
このようなさとられた真実としてのあり方としての空性は、「真如」とか「法界」とか「実際」などと表現されます。
ブッダとしての空性
この空性をさとったもの、つまり仏は、そのさとりにおいて、能所の二が空となった方ですから、その智と空性とがひとつとなっていると解釈します。法(真理)とひとつになった身という意味で「法身」と呼びます。
これは如来蔵思想の基本をなしている考え方で、唯識説も、仏身観においては同じ考えを示しています。この法身は、「法界」という言葉同様、全てに遍くゆきわたっているとされ、「どんなものでも、法身(法界)の外にあるものではない」。「虚妄分別(個々の実存者)はすべて空性においてある」(空性はすべての存在に通徹している)ということになります。
電磁気学とかでも、電荷というミクロからのアプローチと、電場というマクロからのアプローチがありますが、唯識説と如来蔵思想の間にも、何かアプローチの違いのようなものを感じます。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (3)
全く関係ありませんが、今朝、淡路島に行くタコフェリーが休航となる話をテレビで見ました。コメントを拝見していて、それを思い出してしまいました。
行く方法がいろいろあるということは、勉強する身としてはややこしいことでもあります。しかし、行く方法を選べないよりは幸せなことですね。
唯識と如来蔵は、車と飛行機くらいの相違があって、一見したら接点がなかったり、構造原理も違ったりしますが、本質はそこにあるのではなくて、問題は、「それでちゃんと移動出来て、目的地に着くのか」ということです。
あと、目的地に着くまでに快適にニコニコ楽しく行けるのか、等、そういうような視点もアリかも知れない。
結局、川を渡るのに筏は必要ですが、渡れば不要。家を建てるのに足場は必要ですが、建ってしまえば解体します。
仏教「思想」はそんなものだと思います。筏や足場は相応しくしっかりしたものを使うべきですが、工芸品みたいにそれにこだわって珍重しても意味がないものでしょう。
また、筏の細かい仕立てや装飾にこだわって優劣を競ってもあまり意味がない。
ただし、ひとりの人がふたつの筏に同時に乗る事はできないし、ひとつの家を建てるのに足場を二重に組んだら邪魔で仕方がないということは重要で、そういう意味で、いわゆる「ごった煮で何でもアリ」の思想は多分、最後まで使用に耐えられない代物なんだろな、とは思います。ひとつの筏には総王の一貫性は必要です。
大切な事は「行く事」で、どの手段に拠るかは、その人が現在どこにいるのか、どういう道をたどるのか、そういうことによって違うんだと思います。
例えば今、孤島に居る人がA地点に向かいたい場合、泳ぐか船か、ですね。飛行機でもいいですが、多分その場所に空港はないでしょう。ヘリならいけるかも知れません。
一方、駅の近くに住んでる人なら電車が効率的かも知れないですし、お金があるならハイヤーで、ないならバスでも行けると思います。
また、徒歩や自転車ならかなり隈なく歩きまわれそうですし、自動車ならスピードはあります。でも路地を遣うならバイクの方が便利かも…。山越えする必要があるなら、スノーバイクもいいし、ついでに登山用具も必須。