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「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から。

《以下引用》
私自身の雑駁な事情でいえば、私は空海全集を読んでいる同時期に、『坂の上の雲』という作品の下調べに熱中していた。この日本の明治期の事象をあつかった作品はどうにもならぬほどに具体的世界のもので、具体的な事物や日時、具体的な状況、あるいは条件を一つでも外しては積木そのものが崩れてしまうといったような作業で、調べてゆくとおもしろくはあったが、しかし具体的事象や事物との鼻のつきあわせというのはときに索然としてきて、形而上的なもの、あるいは真実という本来大ウソであるかもしれないきわどいものへのあこがれや渇きが昂じてきて、やりきれなくなった。そのことは、空海全集を読むことで癒された。むしろ右の心理的事情があるがために、空海は私にとって、かつてなかったほどに近くなった。
《引用終わり》

この代表的な2作品が、ポジとネガの関係だったようで、興味深いです。奈良の都に作った「国」らしきものを、京の都を中心に更に発展させようとしていた時代。一方、明治政府という近代国家らしきものを、列強の方法論をまねて発展させようとしていた時代。日本という国の事情も似ていた時期かもしれません。

「国」という言葉が、夢とか、理想とかいう言葉とほぼ同義で用いられていたに違いありません。「国」をしっかりと確立しなければならない、その必要性を信じて疑わなかった時代。

平城遷都1300年ということで作成された番組の再放送を見ながら、昔の人が羨ましい気分になりました。唐の方法論をまねて、次々にいろいろなものを制定しています。女性が天皇になって政治をしている点は、現代日本よりも先進的です。

「国」というものを欲したのは、国際社会を意識してのことでしょう。グローバル化の流れです。そして、唐なり欧米なり御手本が必ずありました。しかしながら現代は、むしろグローバル化の結果として、世界が同時に苦境に嵌り込んでいて、そこから抜け出すための御手本も見当たりません。

「国」という言葉に別の万葉仮名(?)をあてるとしたら、「苦荷」とかしか、思い浮かびません。その必要性すら、よく分からなくなってきています。