「釈尊の生涯」(春秋社)
「18.コーサラ国における教化」を読みました。
新興のコーサラ国では、国を飾るために形式的な祭祀儀礼を華々しく行い、したがって有名なバラモンを厚く待遇していました。そこに仏教が入ってきたわけですから、バラモンたちからの反感・憎悪・蔑視ははなはだしいものでした。多くの嫌がらせを受けながらも、釈尊は布教を続け、しだいに浸透して行きました。
その頃に説かれた話。玉耶女経に書かれている七種類の妻の分類をノートしておきます。
《以下引用》
(一)他の男に執心して、自分の夫を軽蔑し、悪心をもって、夫を殺そうと思うのが、殺人者に等しい妻である。
(二)夫が家事にはげんで獲得した財を、すべて奪い取ろうとするのが、盗賊のような妻である。
(三)自らぜいたく、怠惰、粗暴で、口やかましく、勤勉な夫を制圧支配するのが、支配者に似た妻である。
(四)常に夫のためを思い、母が子に対するように、夫やその財をまもるのが、母のような妻である。
(五)妹が姉を尊敬するように、夫を尊敬し、従順であるのが、姉妹のごとき妻である。
(六)遠方から久しぶりにやって来た友人を見て喜ぶように、自ら貞淑にして夫を喜ぶのが、友に等しい妻である。
(七)夫に打たれ脅かされても怒らず、悪心なくして忍び従順であるのは、奴婢のような妻である。
《引用終わり》
前三者は徳が無いので死後地獄に落ちる(!)そうで、この説法を聞いたスジャーター(玉耶)は前非を悔い、今後は奴婢にすら等しい妻を目指しますと言ったとのこと。
わが家では、「私は奴隷ではありません!」と妻も言いますし、私も言います。地獄に落ちないギリギリの(四)をお互いに目指したいと思います。
《つづく》
「18.コーサラ国における教化」を読みました。
新興のコーサラ国では、国を飾るために形式的な祭祀儀礼を華々しく行い、したがって有名なバラモンを厚く待遇していました。そこに仏教が入ってきたわけですから、バラモンたちからの反感・憎悪・蔑視ははなはだしいものでした。多くの嫌がらせを受けながらも、釈尊は布教を続け、しだいに浸透して行きました。
その頃に説かれた話。玉耶女経に書かれている七種類の妻の分類をノートしておきます。
《以下引用》
(一)他の男に執心して、自分の夫を軽蔑し、悪心をもって、夫を殺そうと思うのが、殺人者に等しい妻である。
(二)夫が家事にはげんで獲得した財を、すべて奪い取ろうとするのが、盗賊のような妻である。
(三)自らぜいたく、怠惰、粗暴で、口やかましく、勤勉な夫を制圧支配するのが、支配者に似た妻である。
(四)常に夫のためを思い、母が子に対するように、夫やその財をまもるのが、母のような妻である。
(五)妹が姉を尊敬するように、夫を尊敬し、従順であるのが、姉妹のごとき妻である。
(六)遠方から久しぶりにやって来た友人を見て喜ぶように、自ら貞淑にして夫を喜ぶのが、友に等しい妻である。
(七)夫に打たれ脅かされても怒らず、悪心なくして忍び従順であるのは、奴婢のような妻である。
《引用終わり》
前三者は徳が無いので死後地獄に落ちる(!)そうで、この説法を聞いたスジャーター(玉耶)は前非を悔い、今後は奴婢にすら等しい妻を目指しますと言ったとのこと。
わが家では、「私は奴隷ではありません!」と妻も言いますし、私も言います。地獄に落ちないギリギリの(四)をお互いに目指したいと思います。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (5)
「屁理屈ばっかり!」と言われると、「理論が苦手なものだから逃げたな」と思っていたのですが、女性からしてみれば「男はいつも理論に逃げる」と思っているんでしょう。
この決して噛み合わないズレが、相補的な関係を可能にするんでしょうね…
いくら論理的で筋道立っていても、すべて魔法の言葉「いつも屁理屈ばっかり!」の一言でぶっ飛ばされますから。問答無用です。
ですので最近は理屈ではなくて、感覚的な言葉でしゃべるように心がけています。対機説法です(笑
相手の感情が和らいで来れば、意外に理論・理屈も通じ易くなりますから、やはり女性に対しては、話の順序が大切ですよね。
あくまでも仏法に照らしてどうあるべきか、というのが、うちの場合の夫婦の基準です。それ以外にはありませんので、それに関しては妻に選択の余地はありません。
生活即仏法、基準も明快。
奴婢ということについてですが、聖武天皇も「三宝の奴」と自称しましたし、現実の奴隷制度云々と絡めると色々語弊がありますが、しかし「自己の都合を棚上げして、ひたすら主人に従順に尽くす役割」が奴婢の立場だとすれば、ひとつの比喩として、使用してもいいのかな、と思います。夫婦あるいは人間すべてお互いに奴婢となり、世間のすべてに奉仕していく立場…法華経の常不軽菩薩、あるいは宮澤賢治のデクノボーの立場こそ、「奴婢菩薩」の理想なのかも知れません。
玉耶経の「奴婢」という表現は現代の価値観で見るとドギツイですし、男女差別を感じますが、仏教とて当時の社会習慣から完全に独立して成立することはできなかったということでしょう。
互いに得意分野を生かし、場面場面で主人と奴婢(?)が入れ替わることができれば、夫婦はうまく行くんだと思います。水波坊さんのところは、奥様も同じ道を歩まれるということで、ひとつの理想的な形ですよね。
我が家は、私は理論家ですが、妻は全く解さない。猛烈な口喧嘩をよくするのですが、いつも引き分けになるのは別の土俵に立っているからだと思います。同じグランドで野球とサッカーをしているような感じ。勝敗はつきません。娘たちの審判では、いつも私が負けですが…。
かみ合わないので、かえって主従の切替がうまくできているような気がします。人生、何が幸いするか分かりません。
仏教徒的には、やはり夫・妻は如来蔵の仏・菩薩であると考えて「互いに仕える」道が最良だと思いますが…まぁ、難しいですよね。
私の場合は、できるだけ、妻に対する時は彼女を如来の化身と信じるようにして、私を鼓舞するためにわざとグータラしているのだと感謝して…みたいものです。また、妻も私のこともそのように感じて、どれほどダメな時も感謝・崇拝してもらえたらとてもありがたいと思います(笑
ま、冗談はさて措いても、やはり夫婦は互いに尊敬し、互いの本性=仏性を信仰する生活が理想なんだと思います。恐らくそれは、マザー・テレサが「小さきキリスト」に仕えた生活と通底することだとは思います。
上のカテゴリーにはちょっと当てはまりにくいかも知れませんけれど…。