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実は、このタイトルで、記事一回分、暖めていた構想がありました。

大乗仏教には「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という雰囲気があるようなので、その方法論とかエッセンスみたいなものを抽出することができれば、世界平和とか、これからの地球の舵取りの大きなヒントになるんじゃないだろうか?というものです。

そんなに簡単ではないだろう、とは自分でも思っていましたが、先週のコメントに書きましたら、「やはり無いだろう」という回答を即座に頂きました(笑)

回答いただいた水波坊さんは、こういった私の突飛な考えをそのままぶつけることができる方であり、きちんと受け止めて膨大な知識に裏打ちされた深遠かつ適切な回答を下さる方です。いつもありがとうございます<m(__)m>

さて、ポシャッたところで、もう一度考えてみました。すぐにコメントしてしまうと一回分ブログに穴があいてしまうので(笑)、ゆっくり考えてみました。

「幾何学に王道なし」ということがこの場合にも言えるということですから、要するに地道に行くしかないのですね。そこで思い起こされるのが「一燈照隅」。「萬燈照国」と続きます。そしていずれは「億燈照星(地球)」へと…。

「隗より始めよ」、まずは己が「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」という精神を持ち続けること、それは少なくとも私の場合は大乗仏典を読んで精進を重ねることであるわけです。そういう自分から発信される言葉や行動は、少しずつ周囲をも照らしていくはずです。

このブログもそのひとつとなればいい…。

「自分の実践しかないのだ!」と気付いたときに、先日紹介した弘法大師の言葉を思い出しました。「それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。」という激しい一節。「己の身を惜しんで、近道など考えるなよ!」と一喝された気分でした。

この一節は最澄に送った絶縁状の中の一文ですから、この場に引くのは躊躇したのですが、先にあげた「一燈照隅萬燈照国」は最澄の言葉ですから、それぞれの意見を聞くという意味で、まあいいかな…。

この二人の確執が日本仏教の宗派間の行き来を閉ざすきっかけとなったそうですが、仏道を極めたお二人でさえもそういうことですから、難しいんだな…ということは分かりますね。

尤も、二人の場合は、閉ざすことによって併存(共存)の道を開いたのだと、私は解釈してます。そう解釈すれば「お互いの違いを認めた上で一緒に行こう」の良い模範(つまり一乗のテクニックのひとつ)とも言えますが…苦しいかな…。