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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十六」を読みました。

《以下引用》
密教は、宇宙の原理そのものが大日如来であるとし、その原理による億兆の自然的存在、およびその機能と運動の本性をすべて菩薩とみている。さらにはすべての自然――人間をふくめて――は、その本性において清浄であるとし、人間も修法によってまたその本性の清浄に立ちかえり、さらに修法によって宇宙の原理に合一しうるならばすなわちたちどころに仏たりうる、という思想を根本としている。このため文字のみによる密教理解を「越三昧耶(おつさんまや)」として甚だ憎む。

最澄は「筆授」を専一としていることにおいて、越三昧耶を犯しているかのようである。最澄という聡明な器は、そのことを十分理解していたであろう。
《引用終わり》

最澄は天台教学の完成に全てを賭けていたわけで、密教は立場上、成り行きで、その資格が必要になっただけ。密教で仏になろうなどとは毛頭考えていない。越三昧耶は確信犯である。

適切な例えか分かりませんが、交通法規を学び、車の運転方法も机上で完全に理解していたとしても、ハンドルをほとんど握ったことの無い人に運転免許は与えられません。

「実際に運転は絶対にしません。ペーパードライバーを通しますから、ライセンスだけ出して貰えませんか?実際の運転は弟子にさせますから、弟子にしっかり運転をたたき込んでください。」

何度も謝りながら、執拗に無理なお願いをしてくる。最澄の行動は、そんなふうに見えます。それに対して、ついにぶち切れた空海の回答。以下、現代語の部分を抜粋します。

《以下引用》
…自分は不敏であるが、自分の大師が訓えたところをいまから示す。だからよく聴け。

…聞くということはお前の声から聴け、これが声密というものである。

…可視的な理趣とは、要するに目に映ずる万物の現象である。もっと端的にいえばお前さん自身の肉体を見ればよい。他人の肉体にもとめてはいけない。

…要するに理趣とは、お前の声に密があり、お前の目に密があり、お前の心に密があるということである。

…お前は理趣釈経などというが、お前の三密がすなわち理趣ではないか。おなじ意味で、私の三密も釈経なのである。私がお前のからだを得ることができないように、お前も私の体を得ることができない。繰りかえすが、お前は理趣釈経という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ。

…私が理趣を求めようとする場合、その私(我)とは何か。我に二種類ある。一つは五蘊(人間の心身)という我である。ただしこれは仮の我にすぎない。もう一つの我は、無我の大我である。もしそれ、五蘊の仮りの我に理趣を求めれば、本来仮りの我であるから実体がない。実体がなければ何によってこれを得ることを覓められるであろう。無意味である。しかしいま一種類の我――無我の大我――にこれを求めれば、すなわちそれこそ遮那(毘盧舎那仏――大日如来)の三密である。遮那の三密はいずれの処にあるか。それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。
《引用終わり》

これに対して、最澄の反応は余り残っていないそうですが…

《以下引用》
…奈良朝以来、唐文化全般を受容すべくつとめてきた日本としては儒仏道あるいは書画その他ほとんどの分野にわたって書物によって――筆授で――それをうけ容れた。その日本文化の伝統を新来の真言家はほろぼしてしまった、と最澄は長嘆息するようにいうのだが、ひるがえってみればこの長嘆息に最澄の我のつよさを思わざるをえない。
《引用終わり》

それでも、その後、二年半も文通が続いたそうです…。

《つづく》