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「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十九」を読みました。

大宰府を立った空海ですが、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺に留まり、尚も京に入ることをしませんでした。ここで、もち帰った経典類を整理するとともに、おそらく恵果から託された「両部不二」の着想を論理化・結晶化させていったのではないかと思われます。

この間、最澄は苦しい立場に追い込まれていきます。最澄は旧仏教(奈良仏教)に対して、「論であって教ではない。天台宗こそ教たりうる」という批判をしていました。唐に行く時には「天台宗でいいぞ!」と言ってくれた桓武天皇が、帰国してみると「密教だ!」ということに豹変しておりました。越州で密教(雑密の一種)をちょっとかじってきたということに大喜びされてしまい、それを用いて旧仏教の長老たちを潅頂するよう、最澄は命じられます。

後になって思えば、この命を気骨をもって、辞退すれば良かったのでしょうが、相手が二度も遷都するような強引な帝ということになれば、楯つくこともできないのが普通です。

最澄に対する旧仏教勢力の憎悪が頂点に達したところで、この原因をつくった張本人の桓武天皇が御隠れになります。そのすぐ後に、正統な密教の継承者となった空海が帰国。空海は旧仏教勢力とは親しい関係にありました。

当時は政教一致ですから、空海の登場は政変と言ってもいいような気がします。が、歴史上あくまでも宗教の話となっているのは、空海の密教が余りにも完璧だったからではないかな、と思います。空海も持っていたにちがいない野望を、完全に覆い隠すほどに壮大かつ堅固な「法」の要塞…。

《以下引用》…
いまでも、私のなかにその疑問がある。真言宗は空海以後、多くの俊才が出たが、しかし教義を発展させるという仕事は、ほとんどしていないように思える。空海が、完璧な体系をつくりすぎたせいではないか、ということである。

空海と最澄とはさまざまな面で対照的であるが、この面でも逆であった。最澄は唐から持ちかえった天台宗や越州の密教を、多くは整理しきれず、その間奈良仏教との抗争などで忙殺され、未整理であることを憂えつつ死んでしまった。しかしひるがえっていえば、そのことがむしろ後世を益したともいえるのである。たとえば天台密教の成立は最澄が死んでからのことであったし、また鎌倉の新興仏教の祖師たちが、最澄の持ちかえったものを部分的に独立させ、部分において深めたことなどを思うと、最澄のように、唐から請来した諸思想を完璧な一個の体系にすることなく――極端な言い方をすれば――叡山の上に置き去りにしたというほうが、歴史の発達のためにはよかったかもしれない、という意味なのである。
…《引用終わり》

対照的な二つの体系が併存したことは、仏教史のみならず日本史を豊かにしたと言えるでしょう。

《つづく》