「釈尊の生涯」(春秋社)
「6.太子の修道――(一)禅定」を読みました。
当時のインドで、人生問題を解決し、輪廻から解脱する方法としては、禅定と苦行が一般的だった。
最初は坐禅瞑想によって、梵我一如を思惟観察し、聖音オーンを念想し、梵我の一元論を主張していた。次の段階として、個人的な精神原理(プルシャ:神我)と物質原理(プラクリティ:自性)という物心二元論が主張されるようになった。
精神原理と物質原理の対立が諸悪の根源であり、これを取り除く方法、即ち物質の束縛からの精神の自由を得る方法が瑜伽禅定である。瑜伽とは禅定と同義で、精神を一点に集中して、外部からの物質的肉体的な刺激や誘惑にも動ぜず、精神の統一と自由なはたらきを実現させるものである。
一方、肉体を苦しめて衰弱させ、肉体の束縛から精神を解放しようというのが、苦行の考え方である。
まず、太子(釈尊)は禅定の修行を目指し、アーラーラ・カーラーマに、続いてウッダカ・ラーマプッタに師事した。
アーラーラ仙は無所有処定(何物にも執着しない無一物の状態となった禅定)を得て、これに到達すれば、人生の最高の理想が達成されると主張した。ウッダカ仙は非想非非想処定(精神作用があるのでもなく、ないのでもないような、一種の無念無想の精神統一の禅定)を理想とし、それで輪廻から解脱できると説いた。
太子はこの段階ではどちらにも満足できず、苦行の修行の方へと移っていく。が、この二つの禅定は、仏教でも採用されることになる。
《つづく》
「6.太子の修道――(一)禅定」を読みました。
当時のインドで、人生問題を解決し、輪廻から解脱する方法としては、禅定と苦行が一般的だった。
最初は坐禅瞑想によって、梵我一如を思惟観察し、聖音オーンを念想し、梵我の一元論を主張していた。次の段階として、個人的な精神原理(プルシャ:神我)と物質原理(プラクリティ:自性)という物心二元論が主張されるようになった。
精神原理と物質原理の対立が諸悪の根源であり、これを取り除く方法、即ち物質の束縛からの精神の自由を得る方法が瑜伽禅定である。瑜伽とは禅定と同義で、精神を一点に集中して、外部からの物質的肉体的な刺激や誘惑にも動ぜず、精神の統一と自由なはたらきを実現させるものである。
一方、肉体を苦しめて衰弱させ、肉体の束縛から精神を解放しようというのが、苦行の考え方である。
まず、太子(釈尊)は禅定の修行を目指し、アーラーラ・カーラーマに、続いてウッダカ・ラーマプッタに師事した。
アーラーラ仙は無所有処定(何物にも執着しない無一物の状態となった禅定)を得て、これに到達すれば、人生の最高の理想が達成されると主張した。ウッダカ仙は非想非非想処定(精神作用があるのでもなく、ないのでもないような、一種の無念無想の精神統一の禅定)を理想とし、それで輪廻から解脱できると説いた。
太子はこの段階ではどちらにも満足できず、苦行の修行の方へと移っていく。が、この二つの禅定は、仏教でも採用されることになる。
《つづく》
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