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理不尽を満載した漂流船の中で、彼を救ったものは信仰という虚構…

近代的合理主義のもとに構築されているはずの今日の社会なのですが、空海の時代にも増して理不尽な気がする。

しかし、理不尽の「理」とは飽くまでも人間の「理」。他の動物・植物・無生物の一切合財を含めた総合的な「理」は、人間の「理」とは程遠いということなのでしょう。つまり、人間が人間の「理」にこだわるうちは、理不尽の苦しみから逃れることはできない。

総合的な「理」とは、仏教で言うところの「法」にあたるでしょうか。法を人は完全には理解しえない。その法に立脚して現実という現象が起きている以上、現実が理不尽に見えないのはむしろおかしい。また、人が理不尽の無い社会を創ろうとすることなど、思い上がりもはなはだしい。

とすれば、尽きること無き理不尽といかに付き合うか…方策があるとすれば、それは、やはり、虚構ではないか?

この世の「理」と人間の「理」との間の乖離構造、これが理不尽を生み出すならば、この乖離を「あそび」と捉え、そのすきまで許される自由を存分に生かして、自分だけのストーリーを描いてみる。

夢を抱き、その実現を自分が担う必然性を作り、実現を願い続ける。人生の出来事、良い事も悪い事も、その夢の実現のための糧であると敢えて誤解し、ストーリーを膨らませていく。

そうすれば、日常の何でもない小さな出来事にも、いろいろな意味づけができてくると思う。喜怒哀楽の振幅も大きなものになっていくだろう。

それが、理不尽の荒波を超える力となるのではないだろうか…漂流から長安までの空海の生き方を見て、そんなことを感じた。