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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十」を読みました。

当時の遣唐使船は、羅針盤のような物は一切なく、占いで進路を決めていたというのですから、ゾッとします。

《以下引用》…
倭人どもがこの中国式天文学のばかばかしさに気づくのは、このあと時間を経ねばならない。空海の時代より九百年を経、十八世紀初頭になってようやく西川如見が『天文義論』を書き、「唐土の占星というのは、多くは人事の吉凶禍福に符合させるためにある。考えてもみよ、一人一家の吉凶を天体が感ずるであろうか」と迷蒙をひらいた。
《引用終わり》

「考えてもみよ」というところが気に入りました。占いに頼るくらいなら、他にいくらでも何かありそうですけどね…。遣唐使船のように人生を占い、遣唐使船のように人生を漂流している人が、現代でも少なくないのではないでしょうか。

船の中では、占いや僧侶による誦経が繰り返されていました。空海は「そんなもの効くものか」という思いで見ていたことだろうと司馬遼太郎は推理しています。

体も疲れ、心も疲れ、人々は次々と倒れていきます。効果があるとも知れない方法にすがらざるを得ず、右往左往しながら消耗していく様は、今日の日本そのものです。

《以下引用》…
空海はおもっていたであろう。
「…仏天は自分に密教を得しめようとしている。風も浪も船もことごとく仏天の摂理のなかにあり、この風浪もこの航海も、そして船艙にたおれ伏している病人たちも、その摂理のまにまに在り、そのほかのものではない。摂理の深奥たるや、密なるものである。その密なるものを教えるものは密教のほかなく、その密教は長安にまできている。自分は倭国からそれを得にゆく。わが旅たるや、わが存在がすでに仏天の感応するところである以上、自分をここで水没させることはないであろう。この船は、そういう自分を乗せているがために、たとえ破船になりはてようとも唐土の岸に着く。このこと、まぎれもない。…」
《引用終わり》

そんな中でも挫けないでいるためには、こういう使命感とか、信念とか、大望とか…、夢とかロマンとか、…「虚構」が必要なのかもしれません。それを持ち続けられる人が、やはり強い。

今日、最も有効な「虚構」とは何だろう?

《つづく》