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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の七」を読みました。


最澄について書かれています。

《以下引用》…
最澄の生涯をみて、極端な言い方がゆるされるなら、かれは教団の形成というもっとも世俗的なしごとをしたわりには――もっともその完成となると、弟子やさらにそのあとあとの人々がやったのだが――およそ世俗の機才にとぼしかった。そのくせ、かれは世俗の棟梁である国王から手厚い庇護をうけ、大官たちがすすんでかれのために便宜をはからい、かれが何か希望を持っているということがわかると、世俗のほうから進んで走り寄ってくるというぐあいになるのである。とくに前半生が、そのようであった。

《引用終わり》

その理由については司馬遼太郎がいろいろ推理していますので、本書を読んでいただくことにします。ただ、平安京遷都前に、京都の鬼門に当たる比叡山に最澄が寺を構えていたということだけ、ここではメモっておくことにします。

長岡や平安京への遷都は、仏教の巣窟である奈良から逃げ出すための桓武の政策とも言われ、奈良仏教に代わるものとして桓武に選ばれた天台はとてつもなく強引に優遇されます。

《以下引用》…
かれら(奈良六宗の学匠たち)はくやしさを噛みころして、微笑していたにちがいない。やがて最澄の後半生はかれら奈良六宗の復讐的な反撃のために暗いものになってゆくのだが、その因のひとつは、この最澄にとって幸福すぎる事態がつくった。

《引用終わり》

さて、空海は…

《以下引用》…
最澄以上に経典を渉猟したであろう空海にとって、天台はすでに取捨の対象の中にあったはずであった。かれは経典の比較検討について長じていた。この能力については後世数千万の僧が出たが、かれを越える者がない。そういうかれが、天台の諸典籍について無知であるはずがなかった。知っている以上は、天台がすでに唐にあっても古色を帯びて色が褪せているということも知っていたにちがいなく、ひるがえっていえばそういう利き目の鋭どさが、空海の身上のひとつでもあった。後年、空海は教学としての天台をはげしく攻撃した。空海からすれば天台は顕教にすぎず、読んであからさまにわかるというものにすぎない。天台は「宇宙や人間はそのような仕組になっている」という構造をあきらかにするのみで、だから人間はどうすればよいかという肝腎の宗教性において濃厚さに欠けるものがある。そのことを空海は後年やかましく論ずる。

《引用終わり》

天台が所依の経典とする法華経については…

《以下引用》…
法華経は西北インドで成立した。詩的修辞の才の横溢した人物が書いたらしい。作者は一人ではなかった。時代が降るにつれて次々に増補され、ついに二十七章というぼう大なものになった。多数の手で編まれたにしてはその華麗な文体が統一されており、また釈迦の本質を詩的に把握したという点でどの経もこれに及ばないであろう。さらにこの経は最澄の疑問とする小乗的な教理からまったく離れてしまっている。釈迦の教説として伝承されてきたものを下敷にし、体系としては般若経の空観の原理を基礎としている。空観を唯一の真理とし、それを中心に世界把握の体系を構築しているもので、見様によっては華厳経よりさらにすすんだものであるかもしれない。空については、先蹤の経典として般若経がある。般若経においては、数学のいう零(空)にこそ一切が充実していると見る。その零の観念が、法華経に発展したときには壮大なものになる。零こそ宇宙そのものであり、極大なるものであり、同時に極小なるものである、という。すべての世界現象は零のなかに満ちみち、しかもたがいに精巧に関連しあって組み合わせられている。さらにいえばその極小なるものの中に極大という全宇宙が含まれ、同時に極大なるものの中に極小がふくまれ、そこに一大統一があるというのである。しかもこの経はインド的性格ともいうべき哲学理論におちこむことなく、おのおのの構造を説きつつも仏陀をもって永遠の宗教的生命であると讃美し、その讃仰の姿勢のなかに、「論」の奈良仏教がもたなかった宗教性をもっている。さらにいっそうに宗教的であることは、仏陀の偉大さと恩寵を説くについては宝石のようにきらびやかな詩的修辞をつかい、感性をもってその世をひとびとにさとらしめるだけでなく、比喩や挿話をもって神話的世界に誘いこむという点で、ひとびとを恍惚たらしめる。

《引用終わり》

ということだったんですか…もう一度、法華経を読まなくちゃ。

《つづく》