先日、観音様や阿弥陀様をサンタクロースに例えた書き方をしまして、軽過ぎたかなと反省する機会がありました。
毎日、子供と接する身としましては、クリスマス前のサンタクロースというのは絶大な力を持っておりまして、「そんなことしたら、サンタさんが何も持ってきてくれないよ!」という一言は「南無観世音菩薩」とか「南無阿弥陀仏」と称える以上に効果があります。それだけ、サンタクロースというのは子供にとって紛れもない現実なのかもしれません。
とは言え、軽過ぎたかなとは思っています…
さて、そんな折、司馬遼太郎の本を読んでおりまして、「おや!?」と思う一文に出くわしました。
「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。」
仏教を哲学として見た時に大日如来が最も完璧な思想であろうという意見には全くもって賛成なのですが、上記のようなことを考えていた折でしたので、「虚構」という言葉にちょっと引っかかったのでした。
ただ、サンタクロースの場合もそうであるように、人それぞれ言葉の重みは違うかもしれないな…と思いました。
考えてみれば、小説家というのは「虚構」をメシの種にしている人たちです。日々、自分の頭の中の構想という「虚構」をいじり続けているはずです。ある意味において、目の前の現実よりもずっとずっと現実的なものかもしれません。
科学者であれば仮説という「虚構」に身を置くことになるでしょう。寝ても覚めても、原子核と電子の間を行ったり来たりしているかもしれないし、宇宙の果てのブラックホールの中を覗き込んでいるかもしれない。
宗教であるならば、その宗教が主張する「虚構」の中に身をおき、それを現実よりも現実的なものと捉えることが信仰ということなのだと思います。
経済社会の中で生きている一般人も、お金という「虚構」の中に、言うなれば、紙きれの中に金(金が持つ値打ちもまた「虚構」なのでしょうが)にも相当する値打ちを見出し、命を削って働いているわけです。経済活動において、紙きれが内包する価値は全くもって疑いようのない現実なのであります。
いずれにしても、一時的にその「虚構」という超現実にのめり込むことはあったとしても、「虚構」として素に帰る器用さ(虚数軸と実数軸を使い分ける器用さ)は持っていないといけないということでしょうか…
毎日、子供と接する身としましては、クリスマス前のサンタクロースというのは絶大な力を持っておりまして、「そんなことしたら、サンタさんが何も持ってきてくれないよ!」という一言は「南無観世音菩薩」とか「南無阿弥陀仏」と称える以上に効果があります。それだけ、サンタクロースというのは子供にとって紛れもない現実なのかもしれません。
とは言え、軽過ぎたかなとは思っています…
さて、そんな折、司馬遼太郎の本を読んでおりまして、「おや!?」と思う一文に出くわしました。
「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。」
仏教を哲学として見た時に大日如来が最も完璧な思想であろうという意見には全くもって賛成なのですが、上記のようなことを考えていた折でしたので、「虚構」という言葉にちょっと引っかかったのでした。
ただ、サンタクロースの場合もそうであるように、人それぞれ言葉の重みは違うかもしれないな…と思いました。
考えてみれば、小説家というのは「虚構」をメシの種にしている人たちです。日々、自分の頭の中の構想という「虚構」をいじり続けているはずです。ある意味において、目の前の現実よりもずっとずっと現実的なものかもしれません。
科学者であれば仮説という「虚構」に身を置くことになるでしょう。寝ても覚めても、原子核と電子の間を行ったり来たりしているかもしれないし、宇宙の果てのブラックホールの中を覗き込んでいるかもしれない。
宗教であるならば、その宗教が主張する「虚構」の中に身をおき、それを現実よりも現実的なものと捉えることが信仰ということなのだと思います。
経済社会の中で生きている一般人も、お金という「虚構」の中に、言うなれば、紙きれの中に金(金が持つ値打ちもまた「虚構」なのでしょうが)にも相当する値打ちを見出し、命を削って働いているわけです。経済活動において、紙きれが内包する価値は全くもって疑いようのない現実なのであります。
いずれにしても、一時的にその「虚構」という超現実にのめり込むことはあったとしても、「虚構」として素に帰る器用さ(虚数軸と実数軸を使い分ける器用さ)は持っていないといけないということでしょうか…
コメント