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「仏教入門」(東京大学出版会版)
「二章 仏の本質」を読みました。

入滅と共にブッダの神格化が始まります。
《以下引用》
神格化はまずブッダに対する呼び名の制限や神聖な名称の付加からはじまり、偉大さの根源を過去世における善根功徳の蓄積に帰し、さらに八十歳入滅をもって方便と考えて、永遠のブッダを想定するようになる。…

教祖がしだいに神格化される点で、キリスト教と仏教は興味ある対応を示すが、ただキリスト教の場合、イエス・キリストの出現の一回性(歴史性)を強調するに対し、仏教ではブッダの特殊性・歴史性がうすめられ、本質が普遍的な絶対者に還元されると同時に、ブッダ体験が万人に可能なものとして一般化されていくところは、きわだった相違点である。
《引用終わり》

当時、教祖が亡くなった後は、神格化するのが自然だったでしょうし、後継者として教団を運営していく上で必要なことだったでしょう。でも現代においては、たとえ世界宗教の教祖であれ「一人の人間」だと捉えた方がずっといい、と私は考えます。

神格化の流れについては、仏教の歴史として、私は割り引いて受け止めています。ただ、割り引き方もいろいろあります。「一つの世界には一時に一仏のみがある(一時に二仏は存在しない)という規定」などは、私は真っ先に割り引いていい箇所だと思うのですが、学界ではかなり重要視されているらしい…。仏教学者にならなくて本当に良かったと思っています。

ブッダならば、真っ先に昭和天皇のように人間宣言するんじゃないだろうか…。

《以下引用》
「仏の身が法より成っている」ということは阿含のなかに見られる。そこでは法は梵(ブラフマン)と対比されていて、梵に代わる絶対的存在としての「法」、そして、梵の人格化としての梵天に代わる、法の人格化としての「仏」という類比が成り立つが、そこでは「法」が何を意味するかは必ずしも明白でない。…

戒・定・慧・解脱の四法と、そしてそれらの知という五つが仏の資格として語られている。最後のものは後に「解脱知見」といわれるものだろう。この五つはアビダルマの教義で「五分の法身」といわれる。そして「法身」とは法の集まりで、戒などの五つの部分よりなる法の集まりとは結局、教法の全体をさすと解せられている。その意味するところは、仏の死後、仏に代わるものは、仏の残した教法であるという解釈(たとえば『遺教経』のいうところ)で、これが「法身」という語のもつ第二の意味である。
《引用終わり》

亡くなった方は亡くなった方として、その教え(法)を引き継げばいいと思うのですがね…。「この世で仏になれる人は何人?」とか「何をすればなれるんですか?」とか「私はまだ成れてないんでしょうか?」とか、何事にも野心的な人は居るものです。

《つづく》