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「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の一」を読みました。

《以下引用》
…人間も犬もいま吹いている風も自然の一表現という点では寸分かわらないということをひとびとが知ったのは大乗仏教によってであったが、空海はさらにぬけ出し、密教という非釈迦的な世界を確立した。密教は釈迦の思想を包摂しはしているが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえてそれを教祖としているのである。そしてその原理に参加――法によって――しさえすれば風になることも犬になることも、まして生きたまま原理そのものに――愛欲の情念ぐるみに――なることもできるという可能性を断定し、空海はこのおどろくべき体系によってかれの同時代人を驚倒させた。…
《引用終わり》

「密教を一言で言うと(司馬遼太郎の場合)」という感じですね。「千の風になって」はここから来てるんだろうか?

《以下引用》
…すでに長安に渡来していたインドのもっともあたらしい宗教である密教が、かれによって根こそぎ日本にもたらされた。その渡来の異様な思想をかれ自身が独自なものとして体系化…
《引用終わり》

その業績が認められ大変な有名人になった空海が、故郷の満濃池の治水工事を命じられて帰郷します。地方の、しかも空海の一族(佐伯氏)の領地だけが利するような工事を国家プロジェクトとして行った…司馬遼太郎はそんな空海を「ずるい」と評している。

《以下引用》
…空海の思想には「貧しいものには物をあたえよ、富める者には法をあたえよ」という、それまでの釈迦仏教――煩悩から解脱することだけを目的とした――にはない思想があった…
《引用終わり》

だから、それなりの大義名分は成り立つが、国家を手玉に取ることも何とも思わないところもあったのではないか?

《以下引用》
…すでに普遍的世界を知ってしまった空海には、それが日本であれ唐であれ、国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用すべきものであり、追い使うべきものであった。日本史の規模からみてこのような男は空海以外にいないのではないか。…
《引用終わり》

空海の別の顔が見えてきました…

《つづく》