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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の前半を読みました。

一切の現象をあらしめる本質――さとりの意義

如来は全ての現象の平等性の極限、無二性の極限、出生することのないものの極限であって、常にいたるところで平等であり、分け隔てせず、差別しない。すべての現象もまた同様である。なぜなら、すべての現象は知覚されない(不可得)からである。それは平等性であり、安定性であり、不動性であり、何ものにも依存しないということである。

すべての現象に依存しない心には固定した住処はなく、不生となる。そのような心は転倒せず、ものごとをありのままに理解し、誤って行動することもない。ものの本質(法性)と矛盾せず、すべてのものに随順し、ものの本性(自性)から乖離しない。ものの本性を得たものは少しも拡散しない。なぜなら、すべてのものは原因(因)と諸条件(縁)とによって生ずるからである。

原因や諸条件によって生ずるものは究極的に不生である。そのような人はさとりへの決定を得、すべての現象を思惟することと同一の基盤には立たない。そのときには、依存すべき何ものもなく、何も出現せず、消滅することもない。そのとき、人はものの本性に基づきつつ真理を体得する。はじめて道理に従って(如理)、真理に安住する。この人にとっては、どんな現象といえども仏の徳性ならざるものは何一つとしてない。すべてのものが実体をもたないこと(空性)をさとること、それが菩提にほかならない。

その人が、すべてのものが実体をもたないこと、根拠となる特質をもたないこと(無相)、願い求むべきものをもたないこと(無願)、形成さるべきものをもたないこと(無行)、依拠すべきところのないこと、出現のないこと、取りつくもののないこと、よりどころをもたないこと、をさとるゆえに菩提であって、菩提とは道理に従って修行することである。

それは、すべての現象が上昇することもなく、安定することもなく、所作もなく浄化もないと見て修行すること。束縛もなく、解放もないと見て修行すること。一でもなく、多でもないと見て修行すること。くることがないと見て修行すること。

如実に修行するものには、修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。なぜなら、心は本来、光り輝いているからである。一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。したがって煩悩を断つべき対治者も必要ではない。本性として清浄であり、浄化する必要もなく、無生であり、非難されないものであり、欲望を断じたものである。そこではすべての根元的執着(渇愛)が消滅し、それが煩悩の不生であり、不生なるものが菩提である。

菩提なるものは平等性であり、ありのままなること(真如)である。このことにおいて、もろもろの縁によって生じた生・住・滅を特質とする有為の諸現象のすべてと、生・住・滅を超越した無為の諸存在のすべてとが、ともに成り立つ。有為と無為はありのままなることにおいて成り立つから、ありのままなること(自体)には有為も無為もなく、両者を仮設することもない。それが、ありのままなることである。

ありのままなることは、それ以外のあり方ではないという意味で真如である。変化しない、くることがない、去ることがない、あるがままなる真如である。それは一つとして真如ならざるものはないということであり、汚れもせず、浄められもしない。生ずることも滅することもなく、涅槃と平等である。生死輪廻もせず、完全な涅槃に入らないもの、それは過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。下でも中でも上でもないもの、それがありのままなること、即ち真如であり、真実の意義の同義語である。

ありのままの真実(真如真実)こそが真如であり、如来たるわれと無二である。われと真如を分ちえないこと、それが菩提であり、真実の意義をさとることである。真実の意義とは、すべての如来の所説の教えにおいて、すべての存在には実体のないこと、根拠となる特質のないこと、願い求むべきもののないこと、の三つの解脱に至る門に入ることを知ることである。すべての現象が三世にわたって平等であること、無差別であることを悟入することである。音声なく、言語表現なく、ことばなく、ことばを断じたものである。

知るとは、以上のように意義をさとる知と、意義内容という対象を知る知り手としての認識主体をさとる知とである。それこそがもの(法)の本質を知ることにほかならない。意義をさとる知と、認識主体をさとる知と、究極完全なる意義(了義)を覚知する知、この3つによってさとるものがものの本質である。これが真理の確立性(法住)であり、真理の決定性(法位)であり、ものにおいてはたらかない。ものにおいてはたらかないことと、意義とそれを表現する語句の平等性ということとは、無二という意義によって平等である。
それが無二の門にはいることによる平等性の知である。

教えの究極・完全なる意義と不完全なる意義(未了義)とは、平等なることにおいて意義が等しいこと、それが空性(即ち現象の無実体性)である。空性においては、意義の平等性、人の平等性、法の平等性、解脱の平等性が平等である。解脱の平等性をさとることこそが菩提にほかならない。

さとりの因――汚れと浄め

×対象の色かたち(色)への執着。
○色かたちと、それを見る眼との固有の性質(自性)を知る。

×固定した見方に執着。
○すべての見方はそれ自体が本来無実体であることを知る。

×道理にかなわない心のはたらかせ方(非如理作意)に執着する。
○道理にかなった心のはたらかせ方(如理作意)にもとづいて観察し、その固有の性質は本来存在しない(自性空)と知る。

×疑惑の垢に対する執着。
○疑惑をもたずに素直に心を傾け、信頼する。

×懈怠の垢に執着。
○法をありのままに証得する。

本来は清浄であるすべての現象は、因と縁との集積から生起する。菩薩は、心を汚す現象(迷いの世界)の原因たるものと、心を浄める現象(さとりの世界)の原因たるものとを見分けるべきである。しかも、汚れの因も浄めの因も本来は清浄なのだから、どちらにもとどこおるべきではない。

×我(アートマン)の観念を生起せしめ、固定した見方をする。
○すべての現象は、それを個物たらしめる固定的な実体をもたない(無我)とさとる。

×自分には固定的な実体があると固執すること(我慢)。自己の本体はかくありと固定的に見ること(我見)。
○内に向かっては心を鎮め(内寂静)。外に向かっては心をはたらかせない(外不行)。

×愛欲や怒りの心や害心や理論的考察(覚)。
○人が通常愛着を抱くすべての現象は不浄で嫌悪すべきものと観ずること(不浄観)。すべてのものに対し量り知れないほどの慈しみ、共感、喜びを抱き、特定のものに対する関心を捨てること。縁の法に悟入すること。

×無常を常と思い、苦を楽と思い、無我を我(アートマン)と思い、不浄なのに好ましいと思う四転倒(転は常用外の字を使うのが本当)。
○この身体は不浄、感覚は苦、心は無常、すべての現象には固定した実体がないと考える4種の憶念すべき基盤(四念処)。

×愛欲、怒り、睡眠、心のたかぶりや後悔、疑惑という5種の心を蔽う妨げ(五蓋)。
○信ずること、努力精進すること、教えを憶念すること、心を安定集中させること、正しき知恵という5種の能力(五根)。

×眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの認識の入口(六入)。
○仏・その法・その法を実践する教団・おきて・世間的欲望の放棄・神格についての憶念という六随念。

×七種の正しからざる法
○教えを憶念すること、正しい法を選ぶこと、努力精進、歓喜、心の平安、心の安定集中、特定のものへの関心を捨てることという7種の覚りの条件(七覚支)

×八不正事(邪見・邪思・邪語などの八法?)
○八正法(おそらく八正道:八見・八思惟・八語・八業・八命・八精進・八念・八定)

×九悩事:私に不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛するもの好むものに対して不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛さざるもの好ましからざるものに対して利益を行った、行うであろう、現に行っている。
○九種の禅定の段階

×十種の不善の行為(殺生、盗み、など)
○十種の善行(不殺生など)

《つづく》