「生きる上での苦しみを軽減する考え方を広めて、多くの悩める人を救うこと」…これが、釈尊が悟りを開いてから行ったことで、仏教の原点であり、至上目的だろうと思います。
ところで、これと同じことをやっている番組のひとつがNHKの「ためしてガッテン」だと思います。もちろんこちらは宗教ではないので、心の苦しみだけではなくて、健康上の悩みから家事の悩みまで幅広いですけど。悩みを軽減する知恵を紹介して、分かりやすく説明し、多くの人を救う活動をしている番組と言えます。
番組では、分かりやすく説明するテクニックとしては「擬人化」、多くの人に実践してもらうためには「簡単化」が行われています。
「擬人化」では、例えばホルモンの働きを説明する時に、顔や手足のついた「インスリンくん」とかが登場します。うまく働いているときは笑顔、働きが悪くなると困った顔、膵臓の中から現れて、糖のボールをいじったりする。
これは真実とは若干違います。世の中の物すべてに手足が付いていて、顔があってニタニタしていたら気持ち悪いです。でも、分かりやすさは抜群です。とにかく分かってもらうこと(ガッテンしてもらうこと)が至上目的なのですから、それでいいのです。
「簡単化」は、私はダイエットでよく見るのですが、簡単だけれどもそれなりの効果がある運動法をいろいろ紹介してくれています。私が心がけているものだけでもスロー筋トレ、スロージョギングなどがあります。
これは理想的な方法ではありません。最も効果的な方法は別にあります。でも、普通に生活している人が毎日続けられるものでなければ、ガッテンの場合には意味がないのです。簡単でも効果が無いのなら詐欺になりますが、ある程度の効果が期待できるなら、理想的な方法を目指して挫折するよりはずっといい。
大乗仏教では、これらの手法がよく用いられているのだと思います。
例えば、「如来」は抽象的な概念ですから、厳密には手足があるわけでもなく、印を結んで座ってるわけでもないでしょう。「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが、そうしないでも済む簡便な方法が考案されています。
苦しみを軽減する考え方を、少しでも多くの人に分かりやすくイメージしてもらうために。そして最高の実践法ではないにしても、それなりの効果があって、多くの人ができる方法を提案する。
釈尊の遺志を継いで、少しでも多くの人を救おうとした先人たちの努力に、私は敬服します。
《つづく》
ところで、これと同じことをやっている番組のひとつがNHKの「ためしてガッテン」だと思います。もちろんこちらは宗教ではないので、心の苦しみだけではなくて、健康上の悩みから家事の悩みまで幅広いですけど。悩みを軽減する知恵を紹介して、分かりやすく説明し、多くの人を救う活動をしている番組と言えます。
番組では、分かりやすく説明するテクニックとしては「擬人化」、多くの人に実践してもらうためには「簡単化」が行われています。
「擬人化」では、例えばホルモンの働きを説明する時に、顔や手足のついた「インスリンくん」とかが登場します。うまく働いているときは笑顔、働きが悪くなると困った顔、膵臓の中から現れて、糖のボールをいじったりする。
これは真実とは若干違います。世の中の物すべてに手足が付いていて、顔があってニタニタしていたら気持ち悪いです。でも、分かりやすさは抜群です。とにかく分かってもらうこと(ガッテンしてもらうこと)が至上目的なのですから、それでいいのです。
「簡単化」は、私はダイエットでよく見るのですが、簡単だけれどもそれなりの効果がある運動法をいろいろ紹介してくれています。私が心がけているものだけでもスロー筋トレ、スロージョギングなどがあります。
これは理想的な方法ではありません。最も効果的な方法は別にあります。でも、普通に生活している人が毎日続けられるものでなければ、ガッテンの場合には意味がないのです。簡単でも効果が無いのなら詐欺になりますが、ある程度の効果が期待できるなら、理想的な方法を目指して挫折するよりはずっといい。
大乗仏教では、これらの手法がよく用いられているのだと思います。
例えば、「如来」は抽象的な概念ですから、厳密には手足があるわけでもなく、印を結んで座ってるわけでもないでしょう。「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが、そうしないでも済む簡便な方法が考案されています。
苦しみを軽減する考え方を、少しでも多くの人に分かりやすくイメージしてもらうために。そして最高の実践法ではないにしても、それなりの効果があって、多くの人ができる方法を提案する。
釈尊の遺志を継いで、少しでも多くの人を救おうとした先人たちの努力に、私は敬服します。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (3)
生活スタイルはそれはそれとして、覚とか菩薩行とか、それはまた別問題ではないかと。
記事の続き、楽しみにしています。
>「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが
これは、一応、佐々木先生の御著書に対する感想文なので、佐々木先生の御意見に謙虚に従ったところです(笑)。私自身は、在家のほうがむしろ望ましいのではないかとさえ思っています。僧侶は「基本的には出家比丘ではなく、行学の専門家としての在家の仏教教師(法師)」(福楽寺ホームページより引用)という位置づけに従います。
わかり易い譬え、ありがとうございます。
如来も本来は不可視であって、そもそも主客不二の「それ」ですから、本来は表現不能な「事態・自体」なわけですよね。
それを仮設的に表徴することで、実際に実践する上での手引きとなるわけで・・・それが「教説」の根本です。
仏教は単なる「哲学・思想」ではなくて、必ず実践を視野に置いた考え方です。如来という概念にしても、概念で止まっていては、それは死んだ如来でしょう。
>「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが
私はそう思いませんよ。
そりゃあ釈尊と同じ修行…ということならば別ですが、最終的な覚に至るということで言うならば、別に在家のままでも十分に可能だと思います。
というか、もちろん可能でしょうし、現実的な目標(…という表現もおかしいですが)になり得るものです。