「犀の角たち」(大蔵出版)
「第五章 そして大乗」から最後まで読みました。
釈尊の没後、仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地で散在する状態になると、僧団ごと地域ごとに教義の食い違いが出てきた。お互いに自分たちを正統仏教と考え、他者を破僧集団として非難するという深刻な分裂状態が発生した。
そこでもう一度、仏教をひとつにまとめるために、アショカ王時代(在位は紀元前268〜232年頃)ころに破僧の定義が変更されたらしい。「仏の教えに反する意見を主張する者が仲間を募って別個の僧団を作ること」が破僧の定義であったが、半月に一回の布薩儀式(いわば反省会)に僧団全員が参加すればいいことになった。つまり、これに参加しない者を「破僧」と定義し直した。
これによって仏教は多様化していくこととなる。この様々な新仏教運動を総称して「大乗」と呼んでいる。
その特徴は…
・我々自身が仏陀になろうとする。我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出ている。
・在家の人でもできる修行として六波羅蜜(特に智慧の完成を意味する般若波羅蜜)という修行方法が考案された。
***ここからは気をつけて読んで下さい***
さらには、我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった。
ゆえに、釈尊の仏教と大乗仏教とは別個の宗教であり、超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。
***ここからは私の意見***
第4章の釈尊の仏教のところまではとても心地良く読んできたのですが、第5章で流れが一変します。釈尊の仏教を「人類史上もっとも希有な宗教」と絶賛しますが、大乗には冷たい。大乗非仏説論まで持ち出して、仏教とは呼べないという主張のようです。
私は仏教についての勉強を始めたばかりですし、大乗仏典しか(それもほんの一部)読んでいません。それでも十分感動しております。だから、大乗が仏教では無くなったとしても、私にとってはそんなに大事件ではない。
例えば、ユダヤ教とキリスト教は経典を共有しています(旧約聖書)し、聖地(エルサレム)はイスラム教を加えた3宗教が共有しています。原始仏教と大乗仏教は全く別の宗教だと分類することになったとしても、そんなに異例のことでも無いように思います。
むしろ大乗を「不合理な超越者の宗教」と断じ、釈尊と大乗との間に境界線を引こうと躍起になっているところが、猿と人間との間に境界線を引こうと躍起になっていた人たち(神の視点から離れられなかった人たち)みたいでカワイイ
逆に、釈尊のごくごく普通の人間的なところが大好きだ!と第4章で書いている佐々木氏が、第5章では釈尊に固執し神のように崇めているところが気になります。釈尊を超人化(神格化)しているのは、むしろ佐々木氏の方なのではないか?と感じます。
釈尊とて我々と同じ人間だ!という認識があるからこそ、我々も仏陀になって衆生を救済しようという発想も生まれてくるわけです。そういう意味で特に即身成仏は極めて自然な発想だと思います。キリスト教ならば「みんな頑張って神になろう!」という発想はむしろ不自然ですけど。
視点の人間化の流れを進めたものが大乗仏教だ!という結末を信じて疑わずに第4章までを読み終えましたので、私なりの第5章が既に頭の中に出来上がっておりました。佐々木氏の第5章と私の第5章ではどこが違うだろうかと楽しみに読み進みましたら、何と全然似ても似つかない内容でした。ある意味、最も面白い展開でした。
恥ずかしながら、私の第5章を次回から4回くらいで書いてみたいと思います。まだまだ不勉強ゆえ、勇み足で変なことを書くかもしれません。遠慮なくご指摘下さい。
《つづく》
「第五章 そして大乗」から最後まで読みました。
釈尊の没後、仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地で散在する状態になると、僧団ごと地域ごとに教義の食い違いが出てきた。お互いに自分たちを正統仏教と考え、他者を破僧集団として非難するという深刻な分裂状態が発生した。
そこでもう一度、仏教をひとつにまとめるために、アショカ王時代(在位は紀元前268〜232年頃)ころに破僧の定義が変更されたらしい。「仏の教えに反する意見を主張する者が仲間を募って別個の僧団を作ること」が破僧の定義であったが、半月に一回の布薩儀式(いわば反省会)に僧団全員が参加すればいいことになった。つまり、これに参加しない者を「破僧」と定義し直した。
これによって仏教は多様化していくこととなる。この様々な新仏教運動を総称して「大乗」と呼んでいる。
その特徴は…
・我々自身が仏陀になろうとする。我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出ている。
・在家の人でもできる修行として六波羅蜜(特に智慧の完成を意味する般若波羅蜜)という修行方法が考案された。
***ここからは気をつけて読んで下さい***
さらには、我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった。
ゆえに、釈尊の仏教と大乗仏教とは別個の宗教であり、超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。
***ここからは私の意見***
第4章の釈尊の仏教のところまではとても心地良く読んできたのですが、第5章で流れが一変します。釈尊の仏教を「人類史上もっとも希有な宗教」と絶賛しますが、大乗には冷たい。大乗非仏説論まで持ち出して、仏教とは呼べないという主張のようです。
私は仏教についての勉強を始めたばかりですし、大乗仏典しか(それもほんの一部)読んでいません。それでも十分感動しております。だから、大乗が仏教では無くなったとしても、私にとってはそんなに大事件ではない。
例えば、ユダヤ教とキリスト教は経典を共有しています(旧約聖書)し、聖地(エルサレム)はイスラム教を加えた3宗教が共有しています。原始仏教と大乗仏教は全く別の宗教だと分類することになったとしても、そんなに異例のことでも無いように思います。
むしろ大乗を「不合理な超越者の宗教」と断じ、釈尊と大乗との間に境界線を引こうと躍起になっているところが、猿と人間との間に境界線を引こうと躍起になっていた人たち(神の視点から離れられなかった人たち)みたいでカワイイ
逆に、釈尊のごくごく普通の人間的なところが大好きだ!と第4章で書いている佐々木氏が、第5章では釈尊に固執し神のように崇めているところが気になります。釈尊を超人化(神格化)しているのは、むしろ佐々木氏の方なのではないか?と感じます。
釈尊とて我々と同じ人間だ!という認識があるからこそ、我々も仏陀になって衆生を救済しようという発想も生まれてくるわけです。そういう意味で特に即身成仏は極めて自然な発想だと思います。キリスト教ならば「みんな頑張って神になろう!」という発想はむしろ不自然ですけど。
視点の人間化の流れを進めたものが大乗仏教だ!という結末を信じて疑わずに第4章までを読み終えましたので、私なりの第5章が既に頭の中に出来上がっておりました。佐々木氏の第5章と私の第5章ではどこが違うだろうかと楽しみに読み進みましたら、何と全然似ても似つかない内容でした。ある意味、最も面白い展開でした。
恥ずかしながら、私の第5章を次回から4回くらいで書いてみたいと思います。まだまだ不勉強ゆえ、勇み足で変なことを書くかもしれません。遠慮なくご指摘下さい。
《つづく》
コメント
コメント一覧 (9)
私には近代仏教文献学のほうが頑迷固陋なように思います。勉強不足なんだ!と言われればそれまでですが。
自然科学ならば「実験の結果、これまでの物理学会の常識は覆されました」ということが有り得ます。が、文献学のような学問は厄介な袋小路に入ってしまったら、永久に抜け出すきっかけがつかめないような気がします。のめりこんでいる方々が気の毒です。
佐々木先生のように科学史にも造詣の深い方ならば、そういう文献学の危険性をズバリと指摘して下さっても良さそうなものなのですが…。佐々木先生には、何だか裏切られたような気がして、秋風が身にしみます。
少なくとも釈尊は現場主義の人で、「この世界で仏陀は俺だけだ!」なんて言うような人ではないように思うのですがね…
まあ、会ったことはないですけどね。会っていたら、私が仏陀ですから
もちろんそれに異議を唱える方もいらっしゃるでしょうけれど。
第一、釈尊の思想自体がインド思想やインド文化の流れを無視して考えられないのですが、もし思想の変化や発展を堕落というのであれば、釈尊もインド正統派的思想からの堕落形態でしかないですよね。
そういう「外形的な」部分に真を求めるのではなく、釈尊の覚った法とは何であるか、その核は何かということを検討していけば、大乗仏教もそう捨てたものではないんですがねぇ。
上座部仏教の「釈尊絶対主義」を前提にしているので、こういう議論になるのでしょうね。
「文献学的に」仏陀であると「確定」しているのは釈尊だけであり、後の大乗経典作者は「文献学的」には、単に仏教思想に他の思想を混入させただけ、という見解なんでしょう。
確かに「学問はだからと言って優劣をつけることはしていませんよ」と言うのですけれど、そういう前提が明らかに優劣観に基づくものでして、19世紀欧州仏教学の伝統以来の「パーリ中心主義」の影響の根深さを感じます。
学会レベルではなくとも、今や一般僧侶ですらそういう方向性に傾く者が続出しています。有名な僧侶ほどその傾向が顕著で、私などの「大乗主義者」など、「近代仏教文献学を無視した頑迷固陋の迷信坊主」扱いです。
佐々木先生が「一世界一仏陀」の原則にこだわっているのは、学会がこだわっているからなのですね。でも、学会がこだわる理由が分かりません。それはそんなに大事な原則なのですかね?
「人間としての釈尊」から始まった宗教とは思えないような原則だと思うんですけど…
逆に、この世界に仏陀がいたら、他の人はどんなに頑張っても仏陀にはなれないということでしょうか?定員一名だけです!なんてなったら、やる気なくしますよね…
文献学が、仏教実践の足かせになりますよね。それが本当の仏教だと言うのなら、破僧扱いされたほうがいいですね…
文字数制限が…。
仏教に限らず、およそもっとも繊細かつ複雑な分野のひとつが、宗教です。
人類精神史と同じだけの長さを持ち、あらゆる分野で人類史上もっとも影響力を行使してきたのが、宗教です。
このような巨大な対象について、旧来のパラダイムだけで対処していいのでしょうか…というよりも、恐らく全貌の解明など到底、人間にはできないのでしょう。なぜなら、人間こそが宗教自体だから、です。およそ何かを信じていなければ夜も日も明けないのが、人間です。
無宗教者でも、「家族の愛情」なり「カネ」なり、何かを信じなければ、生きていけません。それが人間でしょう。
主観は主観を分析できない。ただ、その影を追うのみ、です。
そして、その試みも無駄ではないのだと思いますが、究極の地点には、それ「だけ」では届きはしない。
だからこそ、宗教には実践が伴っているのだと思うんです。
このあたりの謙虚さというものが、仏教文献学にも欲しいものですよね。
これはこれで一定の成果がありましたし、その蓄積は重大なものです。
ところが言語哲学などの分野では、そういう前提からして大幅な考え直しがなされているようですし、不可避のようです。自然科学でも同様だと思います。
文化人類学などの分野ではそういう部分を綿密に方法論として考察しているようですが、仏教文献学の場合は、未だニュートン力学が真理、という段階なんだと思います。非常に古式床しい学問ですから…。
しかしそろそろ、根本的に考えなおす時期に来てはいないでしょうか。
いわゆる「一世界一仏陀」の原則によると、釈尊滅後には仏陀はいなくなってしまう。しかし成仏には「受記」つまり「仏陀による成仏の保証」が必要。だから誰も成仏できない。
しかし一世界一仏陀であれば、他の世界にも仏陀がいるのだから、それに会えればいいのでは・・・云々。
以下は私の思いつきですので、読み流してください。
一世界一仏陀というのは比喩的表現、つまり世界は結局個々人が見るようにしか成立しないわけで、その意味で一世界一仏陀どころか、一世界一人間、なわけです。
この数多の「一人間」が唯一の「一仏陀」「一真如」になることこそ大乗の主張なわけですが、まぁ、こんなことはいくら文献を精査しても出てこないことでしょうね。
私の「仮説」など実践的な解釈論ですから、文献学の世界では無意味です。
このあたり、文献学の限界ですよね。
「我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった」というのは、別世界の仏陀に会う必要性を主張した反対勢力がいて、その人たちを納得させるための単なる理論武装だったんじゃないのかな?…と私は感じました。もちろん、佐々木先生に反論できるほどの根拠があるわけではないですけど。
「超越的な存在を想定せざるを得なくなった」のは別の事情に依る部分が大きいんじゃないか?ということを、明日から投稿していきます。19・20・24・25の4日間にエントリーしてます。
そっちの事情が本筋なんじゃないかな…と思ってます。
まぁ、「釈尊だけが至高の仏だ、ということを認め別立するのが仏教である」のでしたら、別に私の信受するものが仏教という名前でなくても一向に構わないのですが、うーん。