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複素数みたいなもの…全然数学的な意味ではなく、飽くまでもイメージなんですが…私たちの頭の中には現実(real)の座標軸と想像上(imaginary)の座標軸があるな、と突然思いました。

実数成分(real part)とは例えば、駅まで何分で電車が何時だから、間に合うとか間に合わないとか。あの品物が幾らで手持ちが幾らだから買えるとか買えないとか。現実的な判断。俗なことと敢えて言いたい。

虚数成分(imaginary part)とは例えば、「人間一人の命は地球より重い」というようなこと。地球の上には人間だけでも60億くらい(?)いるわけですから、realの座標軸では到底ソロバンが合いません。そういうトンデモ判断を可能にする。

でも、夢とか希望とか幸福とか、これは虚数軸だと思うんです。汚い紙に書いた落書きでも、娘が最初に書いたひらがなならば、親にとっては大変な価値のあるものです。高価なステーキも、いっぱいのかけそばにはかなわない時もある。鑑定団では全然値段がつかない物でも、大切な人の形見ならば何よりも大切な物になる。誰からも憎まれるような悪党でも、その人を我が身に代えても守りたいと思う人がいたりする。…

実数軸で計ったら、にっちもさっちも行かなくて、つらいことばかりの憂き世なのです。でも、そこで夢を抱いて、希望を持ち続けて、やがて幸福を感じたりできるのは、虚数軸があるからだと思います。

もちろん虚数軸にも負の方向性は有って、良いことばかりではありません。どうでもいいことに執着して執拗に復讐を繰り返す犯罪者の心理も、実数軸では理解できないものです。

が、ここでは正の方向性に着目して、聖なるものはここに含まれるだろうと指摘しておきます。そこに、逆境の中でも笑顔でいられる可能性があると。

さて、先日までの内容とリンクさせますと…

お金というか、物の値段というのは、基本的には実数軸だけの概念だと思うのです。現実世界での物々交換を円滑に進めるために発明した極めて俗なもの。でも、そこに虚数軸が関与してくると、どんな値が付くかは全然予想できなくなる。例えば、有名選手が着用したボロボロのユニホーム。その選手が好きか嫌いかで0円〜無限大まで値段の幅は広がります。

刑罰の量刑もそうですね。基本的には実数軸だけの概念です。犯罪の再発を防ぐため犯罪者にはそれに見合った刑罰を与えて、言わば見せしめとするわけです。これは治安維持という極めて俗っぽい事情によるものです。でも、そこに虚数軸が関与してくると、被害者は私のかけがえのない人というような要素が入ってきたり、逆に被害者は少し痛い目に遭った方がいい人だったんだという要素が入ってきたりで、無罪〜死刑まで幅は広がります。

聖なる存在は、虚数軸だけの概念だと思います。だから、値段付けをしたりはしないし、賭博場にも通わない(もちろん、賭博場で人々を静かに見つめるということはあるかもしれないけど)。法廷にも立たない。犯罪ごときでとやかく言わない(もちろん、悪いことをしていいというわけではないけれど)。

まあ、これは私の勝手なイメージなんですけどね。我々は実際のところ、虚軸と実軸を常に行ったり来たりしながら(正に虚々実々の駆け引き?)生きていますから、実と虚をこんなふうに区別したところで何の整理にもならないかもしれませんが。

ただ、実→虚とか、虚→実という変換の過程で1+1=(無限大)みたいなトンデモ判断が起こり得るということは意識した方がいいんじゃないかなということです。

虚軸の関与を、私たちは主観的とか感情的とか言って排除しますが、これが悪い作用ばかりではない。真っ暗闇の中で光を見ることができる術でもあるのですから。虚軸の過剰な排除が、私たちから夢や希望を失わせたのではないか?ストレス社会を生み出しているんじゃないか?と思うのです。

仏教的には実→虚が禅定(止)で、虚→実が正観とかだったりするかもしれません。少なくとも止観双修が虚軸とうまく付き合うためのトレーニングになることは間違いないです。

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