「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「五 如来の音声――如来出現の第三相」を読みました。
如来の音声をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。
第一の比喩
四禅(原始仏教以来説かれる基本的な禅定。色界(欲望のない、肉体を存する領域)に対応)について説明しています。
・初禅では、尋・伺・喜・楽・定の5つの心作用が働く。欲と怒りがないから、極めて安楽で、欲界(欲に満ちた領域)から完全に超え出る原因となる。
・第二禅は、無想無行・無覚無観・無尋無伺(心を対象にひきとめることなく、対象を探求することもない)。
・第三禅は、歓喜から離れる。
・第四禅は、寂静。楽の感覚が無くなる。
以上が、世界が壊れるとき(?)に聞こえる四種の大音声で、これと同じように如来の四種の大音声は…
・第一の大音声は、「八種の難点(八難処)を捨てよ!」と説く。八難処とは、八種の不運な生まれ(1)地獄(2)畜生(3)餓鬼の世界に生まれること(4)長寿天と(5)辺地に生まれること(楽にふけって仏法を求めないから)(6)感官に欠陥があるもの(仏の教えを聞いてもわからないから)(7)邪見をもつもの(8)如来の出世しない時代に生まれること。
・第二の大音声は、「有為(諸条件によって作られたもの)は甚だ苦であり無常であるが、無為(絶対・究極の価値)は寂静で苦痛なく、もろもろの捨てるべきものを離れている」と説く。衆生は音声認(音声によって真理を受け入れること)を得る。声聞のこと?
・第三の大音声は、「この他者の音声に従う道(仏弟子の道)はきわめて小さい。これよりも大きな道、師を入用としない自ら真理を覚る道がある」と説く。大信ある衆生は独力で覚る者の菩提に入る。独覚のこと?
・第四の大音声は、「仏弟子の道や独力で覚る者の道を超えた大乗がある。これは菩薩行に結びつき、六波羅蜜と菩提行の流れを断たず、菩提心を捨てず、福徳と知恵の無量の集積にまとめられる。菩提への乗のうち、最勝・最上にして、すべての衆生を利益する乗である」と説く。善根を生じた衆生たちは、この如来の言葉が自分たちの善業の集積からあらわれたのだと理解する。
第二の比喩
山・岩・岩山にある音声は、人のこだまを受けて全ての岩が語るものである。種々のよりどころにもとづいているかに音声は起こり、あれこれの判断がないように…
如来の音声も分け隔てはなく、他者の修行と感官の成熟に応じて生ずる。多くの衆生を教化し喜ばせても、高慢心も救護心もない。
第三の比喩
太鼓が正義を伝える音声を持ち、神々が欲にとらわれ放逸であるとき、虚空から正義の音声を示現するように…
如来の音声を出す太鼓は、十方に普き衆生に正しく伝わる。感官の壊れた者にはとらえられない。その音声を聞いて衆生は菩提を得る。
第四の比喩
神々の王ヴァシャヴァルティンが天の宝を楽しむとき、天女の口から出る一息ごとに多くの性質があり、一息の一音から種々の音声が生ずるが、そこには分け隔てがないように…
如来の一語が響き渡ると、衆生の得られる限りの音声の諸性質が一時に生ずる。衆生はその願いに応じて如来の音声を聞き、聞き終わって煩悩を断ずるが、音声には分け隔てはない。
第五の比喩
梵天はその座から動かずに、一音声を発すれば梵天の大衆を喜ばす。しかも会衆の外には出ないで、会衆をして理解せしむるように…
如来は仏の座に坐して、一音で真理の領域を残りなく満たして鳴り響く。しかし会衆の円輪を超え出ることはなく、さりとて物惜しみの心もない。ただ信心のない衆生にはその音声は聞こえない。
第六の比喩
水の流れはすべて本性同一で、味も一様で分け隔てなく清浄で八つの徳性をもつ。地表の器が異なるに応じて、水の種類もさまざまであるように…
如来の音声も、味は一味で分け隔てなく仏の菩提を本性とするが、衆生の行為の種別によって種々となる。
第七の比喩
アナヴァタプタ龍王(四大河の源となる池の主)は大ジャンブ大陸を普く満たし、四大州を満たすように雨の流れを放ち出す。秋の収穫や森・林・水流などを次第に生み出すが、水の流れは龍王の身からも心からも生じないように…
如来も真理の領域を満たし、衆生の心を満足させるように法の大雨をふらす。百の善につとめて衆生の煩悩を鎮める。しかし、その音声は外にも内にもなんらあることはない。
第八の比喩
龍王マナスヴィンは、7日間この虚空界に雲を集めながらも、目的を果たすまでは雨を放たないように…
如来も、大悲心の雲を集めて、法の大雨を降り注ごうと決意したとき、般若の知恵と巧みな方便をもって、衆生たちを成熟させる。しかし衆生たちの機根がまだ成熟しない間は、甘露の雨を前もって降り注ごうとはしない。粗細すべてに通暁して、知らねばならぬ法を説き、衆生たちが怖畏・嫌悪しないように、次第を追って、法の無上の味をもって満たす。
第九の比喩
「荘厳」という名の大海龍王は、十種ないし百千の雲の飾りを集めて、同じ一味の雨から種々さまざまな雨を降らすように…
如来も法の雨を降り注ごうとするときは望みに合わせて、一つの法を飾りとする荘厳をもって法を説いたり、百千の法を飾りとする荘厳をもって法を説いたりする。如来の法の大雲の教説には何ら判断は無く、どの家系においても、衆生たちの能力を満たしてやるべきかに従って、無量の種類の教説が生まれる。
第十の比喩
サーガラ龍王は、四大州を雲の網で普く蔽い、各所に普く種々の雨を降らすが、愛憎に二分すべきものは無いように…
如来も、大いなる憐みの力で身の雲を広大に広げ、菩提への道を歩むものに法の雨を降らせて、分け隔てなく世間の衆生の全てにあれこれと説く。
《つづく》
「華厳経如来性起品」の「五 如来の音声――如来出現の第三相」を読みました。
如来の音声をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。
第一の比喩
四禅(原始仏教以来説かれる基本的な禅定。色界(欲望のない、肉体を存する領域)に対応)について説明しています。
・初禅では、尋・伺・喜・楽・定の5つの心作用が働く。欲と怒りがないから、極めて安楽で、欲界(欲に満ちた領域)から完全に超え出る原因となる。
・第二禅は、無想無行・無覚無観・無尋無伺(心を対象にひきとめることなく、対象を探求することもない)。
・第三禅は、歓喜から離れる。
・第四禅は、寂静。楽の感覚が無くなる。
以上が、世界が壊れるとき(?)に聞こえる四種の大音声で、これと同じように如来の四種の大音声は…
・第一の大音声は、「八種の難点(八難処)を捨てよ!」と説く。八難処とは、八種の不運な生まれ(1)地獄(2)畜生(3)餓鬼の世界に生まれること(4)長寿天と(5)辺地に生まれること(楽にふけって仏法を求めないから)(6)感官に欠陥があるもの(仏の教えを聞いてもわからないから)(7)邪見をもつもの(8)如来の出世しない時代に生まれること。
・第二の大音声は、「有為(諸条件によって作られたもの)は甚だ苦であり無常であるが、無為(絶対・究極の価値)は寂静で苦痛なく、もろもろの捨てるべきものを離れている」と説く。衆生は音声認(音声によって真理を受け入れること)を得る。声聞のこと?
・第三の大音声は、「この他者の音声に従う道(仏弟子の道)はきわめて小さい。これよりも大きな道、師を入用としない自ら真理を覚る道がある」と説く。大信ある衆生は独力で覚る者の菩提に入る。独覚のこと?
・第四の大音声は、「仏弟子の道や独力で覚る者の道を超えた大乗がある。これは菩薩行に結びつき、六波羅蜜と菩提行の流れを断たず、菩提心を捨てず、福徳と知恵の無量の集積にまとめられる。菩提への乗のうち、最勝・最上にして、すべての衆生を利益する乗である」と説く。善根を生じた衆生たちは、この如来の言葉が自分たちの善業の集積からあらわれたのだと理解する。
第二の比喩
山・岩・岩山にある音声は、人のこだまを受けて全ての岩が語るものである。種々のよりどころにもとづいているかに音声は起こり、あれこれの判断がないように…
如来の音声も分け隔てはなく、他者の修行と感官の成熟に応じて生ずる。多くの衆生を教化し喜ばせても、高慢心も救護心もない。
第三の比喩
太鼓が正義を伝える音声を持ち、神々が欲にとらわれ放逸であるとき、虚空から正義の音声を示現するように…
如来の音声を出す太鼓は、十方に普き衆生に正しく伝わる。感官の壊れた者にはとらえられない。その音声を聞いて衆生は菩提を得る。
第四の比喩
神々の王ヴァシャヴァルティンが天の宝を楽しむとき、天女の口から出る一息ごとに多くの性質があり、一息の一音から種々の音声が生ずるが、そこには分け隔てがないように…
如来の一語が響き渡ると、衆生の得られる限りの音声の諸性質が一時に生ずる。衆生はその願いに応じて如来の音声を聞き、聞き終わって煩悩を断ずるが、音声には分け隔てはない。
第五の比喩
梵天はその座から動かずに、一音声を発すれば梵天の大衆を喜ばす。しかも会衆の外には出ないで、会衆をして理解せしむるように…
如来は仏の座に坐して、一音で真理の領域を残りなく満たして鳴り響く。しかし会衆の円輪を超え出ることはなく、さりとて物惜しみの心もない。ただ信心のない衆生にはその音声は聞こえない。
第六の比喩
水の流れはすべて本性同一で、味も一様で分け隔てなく清浄で八つの徳性をもつ。地表の器が異なるに応じて、水の種類もさまざまであるように…
如来の音声も、味は一味で分け隔てなく仏の菩提を本性とするが、衆生の行為の種別によって種々となる。
第七の比喩
アナヴァタプタ龍王(四大河の源となる池の主)は大ジャンブ大陸を普く満たし、四大州を満たすように雨の流れを放ち出す。秋の収穫や森・林・水流などを次第に生み出すが、水の流れは龍王の身からも心からも生じないように…
如来も真理の領域を満たし、衆生の心を満足させるように法の大雨をふらす。百の善につとめて衆生の煩悩を鎮める。しかし、その音声は外にも内にもなんらあることはない。
第八の比喩
龍王マナスヴィンは、7日間この虚空界に雲を集めながらも、目的を果たすまでは雨を放たないように…
如来も、大悲心の雲を集めて、法の大雨を降り注ごうと決意したとき、般若の知恵と巧みな方便をもって、衆生たちを成熟させる。しかし衆生たちの機根がまだ成熟しない間は、甘露の雨を前もって降り注ごうとはしない。粗細すべてに通暁して、知らねばならぬ法を説き、衆生たちが怖畏・嫌悪しないように、次第を追って、法の無上の味をもって満たす。
第九の比喩
「荘厳」という名の大海龍王は、十種ないし百千の雲の飾りを集めて、同じ一味の雨から種々さまざまな雨を降らすように…
如来も法の雨を降り注ごうとするときは望みに合わせて、一つの法を飾りとする荘厳をもって法を説いたり、百千の法を飾りとする荘厳をもって法を説いたりする。如来の法の大雲の教説には何ら判断は無く、どの家系においても、衆生たちの能力を満たしてやるべきかに従って、無量の種類の教説が生まれる。
第十の比喩
サーガラ龍王は、四大州を雲の網で普く蔽い、各所に普く種々の雨を降らすが、愛憎に二分すべきものは無いように…
如来も、大いなる憐みの力で身の雲を広大に広げ、菩提への道を歩むものに法の雨を降らせて、分け隔てなく世間の衆生の全てにあれこれと説く。
《つづく》
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