昨日も今日も触る話です。町田痴漢冤罪事件に関する報道を、先日テレビで見ました。映画「それでもボクはやってない」のモデルになったと言われています。
満員電車の中で痴漢と間違われて、法廷で無罪を主張しても一向に認められず、裁判費用に一千万円も費やし、懲役一年6カ月の判決を受け、無実を信じる妻や娘に泣かれながら刑務所に入るところが映されていました。
これを見た妻、妙に憤っていました。「私は痴漢にも変態にもまだ会ったことがない!」というビミョウな前置きをした後で、「こんなことが許されていいのか!?」「あなたならどうする!」と捲し立てます。
「ボクは5万円で済むんだったら…家族にさえ信じてもらえればいいかな…」
ガリレオでさえ「それでも地球はまわる」と呟きながら天動説を認めたのだし…
僕なりのこの事件のポイントは、推定無罪の原則はどこに行ったのか、ということです。やったかやってないかは二の次…と言っては語弊がありますが、被告側も被害者側も決定的な証拠というのは出せていない(満員電車の中では普通不可能だと思う)のです。だから、やったかやってないか分からない時には「被告人の利益」なのではないのですか?という疑問。
「やった!やってない!」の水掛け論では埒があかないから、男性が認めて5万円払えばそれでいいですよという鋼の慣行ができあがっているんですね。だから、ガリレオ的妥協ができない人(これが真っ当な人なんですけど)はひどい目に遭ってしまう。
「反省してない」と判断されて、痴漢ごときで(と言ったら語弊がありますが、凶悪犯罪ではないですよね)懲役になる…一方「やった」とさえ言えば5万円で済むというのは絶対おかしい。これなら殺人の方がいいですよね…精神異常の演技に成功すれば無罪なんですから。5万円払う必要もない!
ということで、司法において一般人では理解し難い理不尽な慣行が存在することは間違いないわけで、法廷は開かれなければいけないという思いを強くするのです。
その処方箋として裁判員制度があるとしたら、凶悪犯罪だけでなく、痴漢のような裁判にも適用されるべきではないかとさえ思います。
裁判員制度を司法の側から始めたこと、一般人がそれにむしろ反対していること、は奇妙な逆転現象じゃないのかな…
満員電車の中で痴漢と間違われて、法廷で無罪を主張しても一向に認められず、裁判費用に一千万円も費やし、懲役一年6カ月の判決を受け、無実を信じる妻や娘に泣かれながら刑務所に入るところが映されていました。
これを見た妻、妙に憤っていました。「私は痴漢にも変態にもまだ会ったことがない!」というビミョウな前置きをした後で、「こんなことが許されていいのか!?」「あなたならどうする!」と捲し立てます。
「ボクは5万円で済むんだったら…家族にさえ信じてもらえればいいかな…」
ガリレオでさえ「それでも地球はまわる」と呟きながら天動説を認めたのだし…
僕なりのこの事件のポイントは、推定無罪の原則はどこに行ったのか、ということです。やったかやってないかは二の次…と言っては語弊がありますが、被告側も被害者側も決定的な証拠というのは出せていない(満員電車の中では普通不可能だと思う)のです。だから、やったかやってないか分からない時には「被告人の利益」なのではないのですか?という疑問。
「やった!やってない!」の水掛け論では埒があかないから、男性が認めて5万円払えばそれでいいですよという鋼の慣行ができあがっているんですね。だから、ガリレオ的妥協ができない人(これが真っ当な人なんですけど)はひどい目に遭ってしまう。
「反省してない」と判断されて、痴漢ごときで(と言ったら語弊がありますが、凶悪犯罪ではないですよね)懲役になる…一方「やった」とさえ言えば5万円で済むというのは絶対おかしい。これなら殺人の方がいいですよね…精神異常の演技に成功すれば無罪なんですから。5万円払う必要もない!
ということで、司法において一般人では理解し難い理不尽な慣行が存在することは間違いないわけで、法廷は開かれなければいけないという思いを強くするのです。
その処方箋として裁判員制度があるとしたら、凶悪犯罪だけでなく、痴漢のような裁判にも適用されるべきではないかとさえ思います。
裁判員制度を司法の側から始めたこと、一般人がそれにむしろ反対していること、は奇妙な逆転現象じゃないのかな…
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