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「本当にいい水は、放置しておいても雑菌は繁殖しない。それどころか、有害な菌を入れると死滅するのだ。だから、飲めば体の中の有害な菌を殺すから、体が健康になるのだ。」
この人は健康水ではなくて、聖水の話をしていたのかもしれません。
「では、悪人が飲めば、その人が死んでしまうのだろうか?」と、すぐに疑問が湧きましたが、とてもまともな回答など望めそうにないので質問しませんでした。
善悪の判断って、そんな簡単なものなのでしょうか?国や時代によっても変化する、あやふやで厄介なものだと私は思います。酸性アルカリ性の検査薬みたいに、簡単に判定できる水が本当にあるなら、どんなに楽なことでしょうか。
ですから、70年ほど前の世界的に有名な生理学者が、ガラガラヘビ,黒後家グモ,マラリアを媒介する蚊,病原菌を「神」の視点で悪者に分類している文章を読んで、唖然としてしまいました。
毒蛇や毒蜘蛛は自衛手段でしょうし、蚊は病気を運んでいるとは知らないで食事をしているだけだし、病原菌も代謝産物がたまたま人間に毒性があるというだけの話…それぞれ事情があるのに、全く情状酌量なしに神は善玉・悪玉を分別(ぶんべつ)するというのか?それが神の分別(ふんべつ)だと言うのか?
この人は、キリストは〇、イスラムは×と、神様をも当然のように分別(ぶんべつ)しているのですが、私には理解できません。理解したいとも思いません。
仏教は、善悪(に限らず全てのもの)の分別(ぶんべつ)の基準が相対的なもので、そういう分別(ふんべつ)自体を妄分別として戒めていると思います。現代のような価値観が多様な時代であれば、なおのこと無分別(無配慮)な分別(ぶんべつ)は避けるべきでしょう。
最近、親鸞さんの人気が上昇しているようで、悪人正機説がよく紹介されます。「悪人でも救われる」という趣旨には全く異論がないのですが、「そもそも悪人とは何ぞや」というところから始めるのが話の順番としては正しいような気がします。敢えて話の順番を逆にしたところが親鸞さんの独創性かもしれませんけど。
まあ、ともかく、毒蛇さんや毒蜘蛛さんたちも、人間の生存のために制裁を受けることはありましょうが、等しく生きる権利はあると思います。
♪みんなみんな♪生きているんだ♪ともだちなんだ〜♪
コメント
コメント一覧 (2)
私は高校の倫理社会と簡単な親鸞聖人の本を少し読んだ程度です。「悪人正機」という言葉は革命的な響きが有り、最初は衝撃を受けたのですが、よくよく読んでみると格別ユニークな考え方でもないのだなと思った記憶があります。
まあ、それで親鸞聖人の思想の値打ちが下がるというわけではなく、私としては突飛な革新思想ではないことを知り安心したというところで、親鸞聖人に対する尊敬の念は持ち続けております。ただ、親鸞聖人だけを特別に称賛する意見には、ちょっと違和感を感じることが最近よくあります。
以前NHK特集とかで紹介されていたように思うのですが、欧米の社会で疲れてしまった人たちが仏教に救われたという例が少なくないようです。その仏教とは、チベット仏教であったり、禅であったり、そして悪人正機であったりするようです。
その人たちはそれぞれ事情は違うでしょうけど、キリスト教の中で、神の決めた善とか悪とかに縛られてきた人が「悪人正機」という言葉に出会った時…どうなんだろう?
「悪」という言葉に対するイメージは、日本人のそれとは全然違うんじゃないだろうか?と思うんですね。誤解が生じたりしないんだろうか?と。
まあ、その誤解の中から新たな仏教の展開があれば、それはそれでヨシとするような懐の広さが仏教にはあるとも思いますが
善人とは、仏陀を目指して自力で頑張る人の事ですが、自力に頼る以上、弥陀の本願に完全に頼ることはできないですよね。そんな「善人」でも弥陀は救うわけですから、他力の「悪人」が救われないわけないだろう、ということで、そう考えると別に「悪人正機」は逆説でも何でもないんですよね。
ですから親鸞聖人の「悪人」とは、あくまでも個々の自覚のレベルにおいて問題となることであり、神の視点で絶対的に「あれが悪、これが善」と振り分ける立場とはまったく違いますよね。
その証拠に、親鸞聖人は「私は愚かな悪人だ」とは言ったものの、誰か具体的な他人をして善だの悪だの言ったりはしなかったようです。そして「弟子ひとりも持たず」というのも、結局はひとりひとりが弥陀の前で自己を見つめるべきことであり、誰かが誰かを善だの悪だの規定して「導く」ことなどできはしない、ということなのでしょう。